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ときどきたまに


時々、打ち明けるのは簡単だけど相手の反応が怖くて言いにくいことがある。
時々、これだけは知ってて欲しいな、なんて思って伝えたい時がある。


私は毎日ニコニコ笑顔で過ごすように心がけている。
毎日のように会社ですれ違う人にも
いつも楽しそうやな〜。
笑顔見たら疲れも吹っ飛ぶわ。
いつも穏やかで見習おうと思う。
なんて言ってくれるくらい。私そんなに毎日ニコニコなんだって気づく。
ニコニコ笑顔の分、悩み事とか辛いことを表に出しずらい。
悩み無いなんて思われてもおかしくないくらいニコニコしてるし、
小さい時から「明るくて元気な子」っていう肩書きが私にはある。


私は5歳から9歳まで父子家庭だった。
時々当時のことを誰かに話したいことがある。
いや、そんなん昔の思い出話やんって思われるかもしれない。
でも幼少期を片親で過ごし、大人になってから
親のありがたみとか当時の悲しみとかって
思い出で終わらず正直今も心の底で感じ続けていることがある。
だから人に言えない分、ここに書き殴ってスッキリさせようと思う。


気づいた頃には両親は喧嘩ばかりしていた。
4歳の小さい体で玄関にドタバタと出ていく母を
泣きながら妹と何度も阻止したこともあった。


母は派手な人だった。
今では考えられないけど私もヒョウ柄の服とかファーとか着てたなあ(笑)
よく蹴られるし叩かれるし怖かったけれど
母が居なくなることの方が怖かった。
今でも玄関で踏ん張って毎晩のように阻止していた光景は蘇る。
あの光景、多分死ぬまで忘れないと思う。


ある日、父親が今日はUSJに行こう!と言った。
あれ?お母さんは?と聞いたら、今日は3人で行こう。と。
玄関には父の日・母の日に贈った似顔絵が飾ってあったが、
母のものだけ全部無くなっていた。
靴を履きながらそれに気づいて幼いながらも私は現状を察した。
この日からUSJにはよく3人で行くようになった。
USJに行ってお決まりのホテルに泊まり、、、
この日から我が家の転機となったUSJで働きたい!と思うようにもなった。



1/2成人式とか学校の課題とかで子供の頃を振り返ることがあった。
小さい頃の写真を持ってきてください、なんて言われると
お父さんになんて言ったら写真見せてくれるかな...って悩むこともあった。
お母さんが載ってる写真がほとんどだろうし。
実際もう昔の写真見せて!!なんて言えない。
当時どんな顔で過ごしていたんだろう。どんな子だったんだろう。
気になるけど聞けないのが現実。

新しく始まった3人での生活。
父親はしんどかったかもしれないけれど
私自身はすごく幸せだったし父親が頑張ってくれていることも
全部理解できていた。
料理できないのに3食ご飯作ってくれて、
お弁当も正直ビジュアルは終わってるけど一生懸命作ってくれて。
旅行にもたっっっっっくさん連れて行ってくれて。
3人でディズニーランドに行った。
私の人生を変えた、広島旅行にも行った。
セーラームーンのミュージカルにも沢山連れていってくれた。
やりたいと言った習い事はぜーーーんぶやらせてくれた。
朝早く起きるのが苦手で集団登校に毎日遅刻するし、
地域のおばあちゃんが家の外から
「おはようございます〜!学校ですよ〜!!」って起こしてくれることも。
ありえないよね、ありえないけど父親の頑張りが
地域の人にも伝わってたからこそ
みんな我が家を助けてくれたんだと思う。
父親が仕事で忙しい時は色んな人が学童に迎えに来てくれた。
そろばんの先生、バレーのコーチ、サポートセンターのおばちゃん、
父親の職場のお兄ちゃんやおばちゃん。
一緒にハンバーグ作ったり、ご馳走になったり、クレープ食べたり。
小さい頃の記憶って忘れるはずなのに全部鮮明に覚えてる。
こんなに人にサポートしてもらいながら生きるなんて、
絶対当たり前の事じゃないんよ。
こうして私は色んな人に支えられて育ってきたからこそ
今の私も「自分より人」っていう考えで生きてるのかもしれない。


今思えば父親はストレスも凄く溜まったと思う。
言うこと聞かない小さい子供二人を、残業の多い仕事しながら
1人で料理も洗濯もお風呂も全部やって。
この時の父親は怖いなって思うことも本当に沢山あった。
何回机をひっくり返しただろうか😂
でも今は逆によくあの状況を1人で耐えられたなって思うから
あの怒り達も、愛情だったんだと思える。
大人になって聞いたことだけど、、
知り合いがイタリアン料理してるから深夜の2時とかに寝かせてから
飲みに行ってたりしてたんだとか。😂
本当にどれだけ耐えて頑張っていたのか私には計り知れない
当時の出来事だったと思う。
なのにそんな父親に向かって私はいつも寝る前に
「今からアフリカの野生動物に食われてしんできます」
なんて手紙を何回も残してた。
どんな気持ちだったんだろうか。


私が9歳になった冬、お父さんの友達と今日は出かけよう!
と言われ、父親と同じ歳くらいの女の人と近所の水族館で会った。
単純に知り合いだと思って会って、今の母になるとも思っていなかった。
水族館で会って楽しく過ごして手編みのマフラーを私と妹にくれた。
黄色のマフラーだった。
とっても良い香りでふわっふわで感動したのを覚えている。


それ以降も晩御飯を作りに来て遊びに来てくれたりするようになった。
母の料理が食べたことの無いような和食が多くて
あまりにも美味しくてこの時は父が作る料理より大好きだった。
母は遠くに住んでいたからいつも高速バスで家まで来てくれていた。
バス停まで何度も見送り別れる度に、私も別れるのが嫌になって
泣きながらまた来てねって言う回数が増えた。
順調に母は母になってくれた。


でもその後、やっぱり母と私たち3人の生活スタイルや思想に
食い違いがあって何度も何度も衝突した。
母はいつも正しいことを言う。でも3人で暮らしていた頃に
全部に手が回らなかった私たちは私たちのやり方があった。
母に「ああしなさい」「こうするべき」って言われる度に
イライラしている自分が生まれてくるようにもなった。
でも本当に言っていることは正しいって分かっていた。
一般常識を教えてくれている、と。
父親の教えが悪いという訳では決してないけれど、
あの時母が正しい道に導いてくれなかったら
私は常識の無い人に育っていたと思う。
思春期にもなれば母の一つ一つの注意も嫌になっていた。
もし反抗してしまえば着火するのが速い母はすぐ怒るから
頑張って胸の内で怒りは耐えるようにもした。


とはいえ、あれこれ言ってくるのは注意や指摘だけでは無い。
あなたはこれが得意なんだからこんな道に進んだら?とな
これが向いてると思う、似合うと思う
と分析しながら提案してくれることも多かった。
そのおかげで私の世界も広がっていったのも事実。
料理の常識だってお手伝いを通して学べたおかげで
今一人暮らしでは料理することが普通になっている。


私が小学6年生の時、バレーボールでキャプテンでエースだった。
それなりに強いチームで試合にも出て練習は吐くほど辛かったけど
頑張った帰りには焼肉をしてくれた。
それが凄く凄く嬉しかった。
私が一番好きなご飯も母が作るハンバーグなのも知ってるから、
大学の時に一人暮らしを始めた私が帰省する度に
いつも黙って必ずハンバーグを作って迎えてくれていた。
そんな優しさもいっぱいな母だ。


そんな幼い頃からドタバタと生きていた私にとって、
幼い頃に好きだったものを振り返ると胸が痛くなる。
最近、平成に流行ったキャラクターとか音楽が
振り返られる現象に合わせて、私も当時の事が蘇る。
ラブandベリーだって、、そりゃあ楽しいゲームだった。
でも私にとっては同時に、元母方の祖母の家の2階で
ラブandベリーのカードを妹と整理していたら
1階で父親が、元母親とその両親と対立しているのが聞こえて
父親だけが家に帰ったあの光景が思い出される。
大人の話だからなんの会話かなんて4歳の私には分からない。
けど2階から眺めることしかできなかった自分が悔やまれる。

今も大好きなセーラームーンだってそう。
セーラームーンミュージカルを見に行くのに
元母親は私が好きなネプチューンの衣装を作ってくれていた。
そういうのがセットで何でも思い出される。

衣装を作ってくれたといえば、
小一の時に発表会で衣装を用意しないといけなくてアヒル役の私に
裁縫なんてしたことが無い父親は徹夜でアヒルの衣装を作ってくれた。
私はヘラヘラして無事舞台に立ったけれど、
どうして買った物ではなくて手作りにしたのか、
どんな気持ちで寝ずに作ったのか、父親の事を考えると目頭が熱くなる。

こういう当時の事を思い出したところで
それは悲しみなのか、怒りなのか、正直なんでもない。
でも涙が出るし思い出したらいけない思い出のような気がする。
人に話したいことだけど、話したところで変な空気になるに違いない。
でも聞いて欲しいから私は話したいって思う。
1人、2人でも私の本当の人生を知ってくれる人がいたら
どれだけ悩みを打ち明けやすいだろうか。


そんな悩みを知っているのは私のパートナーのぬいぐるみだけ。
そう考えるとぬいぐるみが尊くもあり、
誰にも頼れないことに切なくもなる。
笑顔で過ごしすぎているから相談しにくいと思っていたけれど
根本的に小さい時から人に相談することを恐れていたのかもしれない。
だからぬいぐるみしか話せなかった。
本当に私の心を動かした「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」という
本・映画の登場人物と同じなんよね。


明日も出社すれば、誰かと笑顔を交わし
いつもあの子は笑顔だな〜なんて思われるのだろう。
昔がどうであれ、今後の私を作るのは自分だから
印象だけでも良くしていかないと、よね。


最後に、私にとってぬいぐるみがどれだけ大切なものなのか。
こういった波乱な人生を過ごしてきた分
いつも傍で見守ってくれたぬいぐるみには感謝でしかない。
そろそろ離れろ、もう持ち歩くなって親には言われるけど
私が唯一私の全てを話せる友達は彼しかいないんだ。

こんなこと言うと寂しいやつだなーなんて思われるよね。
私は孤独でもあり、孤独を好むけど、
人が集まる円の中心に生きてると思ってる。
中心だから隣がいなくて孤独に見えるだけ。
自己中って話じゃなくて自分で人間関係作っていくって話。
必要な人だけ来るし、合わないならサヨナラすれば良い。
サヨナラした後に実際に向こうから寄ってこないなら
その人にとっても私は必要ないんだろう、じゃあ終わりって。
これからもきっと人には話せないことが増えるしあると思うし
こうやって何度も過去を振り返ると思う。


それでもいつ死んでも良いように、毎日笑顔に後悔無く
生きていきたい。


明日も空を見上げて、素敵なキャンバスと心を交わせて😌🌼
明日も晴れますように。

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