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孤独な天使たちの話。

 ずいぶん前。
 「デビッド・ボウイのこのアルバムとこのアルバムが好きでー...」と音楽好きの知人に話すと、
 「ボウイは、あれは『音楽の天才』じゃなくて、すごく優秀な人間がたまたま音楽をやっているだけだから特に好きじゃない」
 と、よく解らんことを言われたことがある。

 それで...

https://note.com/waganugeru/n/n4f64845cef2d

 こちらの記事。不勉強なもので松永さんを知らんなあと思いながら読みながら、(これ、デビッド・ボウイにも当てはまるんじゃないの)と思った。

 ボウイはコクトーほどの多様な活動をしていないけれど、でもフォームよりもテーマを重要視しているアーティストだと思う。
 ボウイの兄は精神病院に入院させられていて(後に自殺)、この兄に対しての家族の扱いがボウイのトラウマになっていると聞いたことがある。そして、いつか兄と同じ精神病を発症するのではという強迫観念からジギー・スターダストという人格を創り出した。
 ジギー以外にも色んなキャラクターを創り演じる。スペース・オディティのトム少佐も、トム少佐のなれの果てアッシュ・トゥ・アッシュズ(MVの道化師)、アラジン・セインも...そのどれもが孤独やトラウマに襲われている。ボウイにとって、このキャラクターというのがフォームなのかとも思った。

 そう考えると、前述のよく解らない台詞にもほんの少しだけ理解を示せる気がする。

 ・孤独な天使たち 
 もう少しボウイの話をしようと思ったけれど、コクトーで思い出したことがある。
 大学生の頃、ベルトルッチの『孤独な天使たち』が公開されたとき、そのタイトルをずっとコクトーの『恐るべき子供たち』と混同していた。タイトルの邦訳者がたぶん意識しているんだと思う。内容もちょっと似ている。 
 ここで無理矢理、ボウイの話に繋ぐ。
 『孤独な天使たち』の劇中でボウイの「スペース・オディティ」のイタリア語バージョンが歌われていた。本人がイタリア語で歌っている。その歌詞がオリジナルに負けないくらい良かった。

 オリジナルの英語の歌詞だと、宇宙飛行士と管制塔の無線での会話、という内容なのに、これがボウイのカタコト(流暢かどうかわからないけどたぶんカタコトだと思う)のイタリア語の歌になると、少年と少女のヒリつくような悲痛なコミュニケーションとして歌われる。

 ”途方もない距離が過ぎたが、
 気分は落ち着いていて、
 宇宙船は行き先を知っている。
 彼女に愛していると伝えてください”

 というオリジナルの英語の歌詞が

 ”夜、大きな海、泳ぐなら手を貸そうか?
 ーありがとう、でも僕は今夜死にたい
 僕の中には天使がいるから”

 というイタリア語に変わっていた。

 数センチの距離で交わされる思春期の男女の言葉(しかもそれがネイティブではない言葉で歌われる)と、宇宙の数万キロを跨ぐ言葉も本質的には変わらない。距離感は同じようなものだ。むしろ我々は全員孤独な小宇宙の中にいるんだと感じた。
 

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