発見者たち(1)桜井均

1973年夏、松山市郊外の旧久谷村にある四国霊場四十六番札所浄瑠璃寺の縁の下から、約300枚の皿が発見された。

NHK入社4年目の桜井均がこの皿を発見したのは偶然だった。別の取材で愛媛県に来ていた桜井が、小用を足そうと寺の裏側にまわったときだ。ふと目をやった大師堂の下に、白く浮かび上がる何かを見た。それは段ボールに詰め込まれはみ出していた夥しい数の白い皿だった。

皿に何かが書かれている。桜井は汚れた皿の何枚かを手に取ると、サイパン、ニューギニア、ダバオなどの地名が見える。もっとよく読むと、人名と、年齢と、家族について書かれており、その人の仕事や人柄について短い七五調の詩のような文章が続いた。共通するのは、どの人も最後に亡くなっていることだった。地名はいずれもアジア・太平洋戦争の激戦区。どうやら戦死者についての墓碑名が書かれた皿だということがわかってくる。これが300枚近くもあるのだ。

うたはこんな調子だった。

川井福市様 二六歳 大久保 二〇、三、一
 福市さんは 餅がすき
 帰ったとき 大いそぎ
 比島に三年 ミレ島で
 掃射をうけて 遂に逝く

餅が好きだった福市さんが、フィリピンで三年戦い、敗戦の年に機銃掃射を受けて死んだ。享年26歳。農民兵士の人生が4行のうたにまとめられている。どの皿もその人その人の人生が刻まれていた。

「いったい誰が、なんの目的でこのような歌をつくり、それを皿に焼きつけたのだろう。そして、なぜそれらが寺の縁の下に無残にうち捨てられているのだろう」。

次々と浮かぶ疑問を胸に、桜井は寺の住職に取材を申し込む。住職によれば、皿を焼いたのはこの村の出身者、相原熊太郎さんで、都新聞(現・東京新聞)の元記者だという。生きていれば90歳になるだろうが、消息はわからない、とのことだった。

次に村人に話を聞いていくと、皿の存在すら知らない人がほとんどだった。知っている人でも、熊太郎さんの名前を出すと少し困った顔をした。どうやら熊太郎さんが根掘り葉掘り戦死者のことを聞くので「余計なことをするな」という空気が村に流れ出したようだった。

桜井は熊太郎さんの遠縁だという夫婦にたどり着く。戦後、GHQを恐れて戦争にまつわる話をタブー化していたこの村で、熊太郎さんは戦死者一人一人の記録を書き留めていこうと思い立ったのだ。そうして三百軒以上の家を訪ねて、聞き書きしたメモが、あの四行詩だった。

相原熊太郎さんは東京・荻窪に在命だった。自宅を訪ねると、真っ白な髭をたくわえた着流しの老人が現れた。このときちょうど90歳。東大の哲学科出身で、同級生に安倍能成がいたという。桜井が持参した皿を渡すと手で撫でながらなんと書かれているか尋ねた。目が見えないのだ。桜井が読み上げても、首をひねるだけだった。要領を得ない。

日を改めることになった桜井は、再び村を歩き取材を重ねる。そうしてもう一度、熊太郎さんの家を訪ね、あの皿で一体何を作ろうとしていたのかと問う。老人は震える手で「相互慰霊の塔」と紙に書く。慰霊の塔を作り、その壁に皿をすべて貼り付けるつもりだったのである。

桜井は聞いた。「捨ててあった皿は、どうすればいいのでしょうか」。
老人は答えた。「捨てろ!」。

「村の人はあのとき気がつかなかったのだから、いまさら……」と一気に続けた老人のこのときの気持ちは、どんなものだったのだろう。戦後すぐの、「あのとき」でないといけない儀式とは、なんだったのだろう。

桜井は村に戻って熊太郎さんの言葉を伝えると、村人はショックを受ける。そして、しばらくしてから、熊太郎さんを村の恩人として、遺族会を中心に慰霊の碑を作る話が持ち上がった。もっとも、遺族会は皿が読みにくいからと新たに作った皿を足したり、何行も足して改作したものを含むなど、熊太郎さんの意思を厳密に継いでいたとは言えなかった。熊太郎さんは高齢を理由に、この村が作った慰霊碑の除幕式に出席しなかった。


桜井たちは、皿を発見してからこの村の碑を作るまでのすべてをカメラに収め、1974年8月9日夜にドキュメンタリー番組『皿の碑』として放映した。番組は反響を呼び、第1回放送文化基金賞奨励賞を受賞している。

村が作った慰霊碑は今も現存している。慰霊碑を見たとき、多くの人は「相原熊太郎さんという人がいたから人々の記録が残ったのだ。すばらしい行いだ」と思うだろう。だが、皿を偶然発見した桜井均さんの功績はきっと残らないだろう。この「発見」がなかったら、皿は寺の縁の下で朽ち果て、熊太郎さんの意思は残らないまま、村人は何も知らないままだった。ドキュメンタリー番組にもならなかった。ある美談のような物語のなかで、何かが欠けている。そう思う。

テレビは常に現在形である。アーカイブが歴史を作り、歴史が権威に利用されるなら、アーカイブされないことで権力に立ち向かおう、とするのがかつてのテレビマンたちの矜持だった。テレビに対して自ら「お前はただの現在にすぎない」と言い切った。だがそれ故に、この番組を今から参照するのはとても困難である。だから、こうしてインターネットの片隅に番組ディレクターの話を記録しておくくらい、いいだろう。

※この文章は、桜井均『テレビの自画像──ドキュメンタリーの現場から』(2001年、筑摩書房)の初めに出てくる「皿の碑」に関するエピソードを多く参照しています。

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