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【感想文】ゼノブレイド3【ネタバレあり】

はじめに

 横になって目を閉じる。暗闇と静寂に親しみ、寝間着の毛羽立ちも気にならなくなり、意識は落ちる。自分の与り知らぬところで、副交感神経が最小限の電気信号により呼吸を維持し、血液を循環させている。循環の方法が自然であるか人工であるかの差に今はひとまず目をつぶる。眠ることと死ぬことの違いはここにある。あるいは、ここにしかない。
 死ぬことを考えるのは怖い。そこには自分の意識は届かない。自分ではどうにもできないのに、決定的に自分を終わらせてしまう。死を遠ざけたいと思うのは当然の感情だ。死にたくないから生きようとする。自分が生きられる最大限度まで生きて、満足すれば、死は怖くない。そう思いたがっている。

『ゼノブレイド3』(以下、「3」)は2022年7月29日に発売されたRPGだ。対応機種はニンテンドースイッチ。開発はモノリスソフト。販売は任天堂。
「ゼノブレイド」シリーズは2010年発売の『ゼノブレイド』(以下、「1」)から始まっている。続編『ゼノブレイド2』(以下、「2」)やリメイクを挟んでの新作。各作品の世界観には一応の関係があるが、単体でも物語は楽しめる。関連性を知っているとより深く世界観に浸れるが、同時に多くの謎が生まれることになり、深みにはまると止まらなくなる。
 シリーズの接頭辞である「ゼノ」の名で遡れば、1998年にスクウェア(当時)から発売された『ゼノギアス』から始まる。
 それぞれの内容については触れないが、私がプレイした順番を示すと「ゼノギアス」→「2」→「1」(リメイク)→「3」である。プレイしたといっても浅い理解に留まっているし、解釈違いも多々あると思うが、感想文ということでご容赦いただきたい。

あらすじ

 舞台となる世界(大陸と捉えてよい)は「アイオニオン」と呼ばれており、そこでは機械を駆使する「ケヴェス」とエーテル(魔法みたいなもの)を駆使する「アグヌス」の両国が永年ともいえる戦争を繰り広げている。両国民は培養液の中で生まれ、現実の人間でいえば十歳程度の年齢で容器から排出され、戦闘技術を学び、戦場へと駆り出される。戦場で命を落とした場合は肉体が朽ち果てて土塊になる。生き残り続けたとしても、彼らの余命は十年と定められており、無事に全うすれば国を治める女王から祝福を与えられ、光の粒子となって消える。ほとんどの国民は十年の余命を迎えることができない。戦いの中で死ぬか、十年を生き延びて消えるか。それが両国民の定めだった。
 主人公であるケヴェスの少年ノアはケヴェスの兵士であり、かつ「おくりびと」と呼ばれる職務に就いている。「おくりびと」は専用の笛を持ち、奏でることで土塊と化した死体(作中での呼び名は「骸」)を光の粒子へと変えることができる。この行為は「おくり」と呼ばれている。戦争には役に立たないと揶揄されながら、ノアは「おくり」を通して多くの人の死を見送り、その行為の意味を見出したいと思っていた。
 ある日、ノアとその仲間たちは、ケヴェスよりとある装置の破壊を命じられる。目的地付近でアグヌスの兵士と交戦している最中、見知らぬ男が現れて両兵の戦闘を妨害する。ノアたちにとっては奇怪な、身体中が皺だらけのその男は、自らをゲルニカ・ヴァンダムと名乗り、本当の敵を倒さなければならないと伝える。見知らぬ勢力からの攻撃を受けながら、ノアたちはゲルニカの教えてくれた道しるべに従い、この世界の真実を知るための旅に出るのだった。

 

美点と欠点

 明らかに普通ではない育ち方をしているアイオニオンの人たち。SF的な設定はシリーズに触れてきていなくても感じられるだろう。むしろ前作の「1」「2」は核心部分にある科学技術の発展や暴走にも触れている。
 一方で、それとくらべると「3」は構造が異なり、まず「とある事象」の結果としての世界がある。アイオニオンというギリシア語の邦訳のとおり、永遠に戦争が続き、定められた寿命の中で戦うこと以外の何物も知らされない世界。ギミックよりも、その設定がもたらす価値観の揺らぎ、感情のせめぎ合いに焦点が充てられる。その分説明は省略されがちで、過去作と同じ調子でいると面食らう。
 過去作との違いを感じるポイントはここだけではないが、最も顕著なのがこの表現のバランスだと思う。ノアを含めたメインキャラ全員が細やかに表情を変え、特定のシーンでは言葉もないのに存在感が伝わってくる。生身の人間らしさと言ってもいい。
 例えば休憩地点では、プレイヤーが行動選択をする間、背景ではキャラクターたちの掛け合いが行われ続けている。単なる交流の姿は見せ場とは対極にあるようなものだ。時間にすれば一分程度のやり取りの繰り返しだが、単なる語り合い以上の掛け合いを見ているうちに、彼らが旅をしている最中であることを実感できる。
 表情、仕草、瞳の揺らぎ、何気ない言葉のやり取り。この細やかさへの気配りは、過去作にはなかった本作の最大の魅力と言ってよいかもしれない。親しみやすさは、取っつきやすさに通じている。シリーズの集大成と言われることも多い「3」だが、確かに過去作の要素を知った上でプレイしたときの快感も理解できる。しかし個人的には、何よりもプレイしているときの親しみやすさから、「3」はシリーズを新規に始める方にこそ薦めやすい作品だと思う。

 シリーズの中における「3」の独自性として、もうひとつ、サブクエストの豊富さにも触れておきたい。
 豊富といっても単なる数の問題ではなく、演出や表現の力の入れ方も豊かであり、内容の面白さやキャラクターを理解する上での重要性も、踏まえている。はっきりいえば本編に組み込まれてもおかしくないクオリティなのである。これがサブクエスト扱いとなっているのは、おそらくメインストーリーに関わらないという一点にしかない。
 ゲームはまず駆け抜けるようにプレイするスタイルでは、実は「3」の魅力が半分も伝わってなかったりする。それくらいサブクエストではキャラクターが掘り下げられていく。
 全くないとは言わないが、時限クエストがかなり少なくなっているのもうれしい変化だった。

 反面、説明はかなり乏しい。こればかりはシリーズ経験者でも、予想以上に投げっぱなしにされることは覚悟しておいた方がいい。気にならない人は気にならないだろうが、「1」「2」の怒涛のような設定暴露と伏線回収を見ていると「3」のスタイルの違いに驚かされる。それでいて難しい設定がないわけではないのが厄介なところ。何せ「1」「2」の流れを汲んでいるので、「どうしてそうなったんだろう」という疑問はどうしても湧いてしまう。疑問が時間を求めているうちに、どうしてもテキストがほしくなるが、詳細は語られない。もどかしいことこの上ない。

 そんな気になる点がありながらも、キャラクターの描き方、その生き生きとした描写は十分に、欠点をカバーできるほどの美点だと思う。それというのも、この作品のテーマは「どう生きるか」つまり「どう死ぬか」だからだ。

 

禁欲と親愛

 アイオニオンは「死への恐怖」に支配された世界だ。そこでは死は極端な程に矮小化される。死を怖がる前に戦わないといけない現実があり、生まれたそばから戦うことばかりに没頭する。戦いにも理由があり、各コロニーに設置された火時計は、貢ぎ物として相手国の兵士の命を欲している。火時計が停止すればコロニーは滅びるため、死に物狂いで戦わなければならなくなる。
 ある意味では、きわめて禁欲的な世界ともいえる。「3」は珍しく特定の宗教の存在を感じさせないストーリーになっているが、戦いに明け暮れる兵士と、その統率者である女王との間には信仰に近い感情があることがうかがえる。十年の寿命は、戦いが終わることを表す。寿命を全うして女王に看取られるために、十年を生き延びる。このとき、死は救済になっている。十年以上のときを生きたいとも思えなかった主人公たちには、皺だらけの人間が老化という現象であることも、親子や性愛の概念もない。それがアイオニオン全体に広がっている禁欲的な信仰である。
 この禁欲に、ウロボロスという力を宿した主人公たちが抗っていく。ウロボロスはアイオニオンに広がる信仰の外にある力であり、説明はないが描写から察するに、ウロボロスと化した者は、禁欲から脱することができる。ウロボロスはまさしくアダムとイヴに知恵の実を薦めた蛇なのだろう。「3」の描写でいえば、まずウロボロスの力を得た者たちは着替えることに羞恥心を覚えるし、相手を求める感情が溢れかえり、概念さえ知らなかった愛するという感情を抱くようになる。その言葉を知らないがゆえに、親愛の情が様々な描写で表される様は微笑ましく、感心させられるほど細やかな描写だった。

忘却とその否定

 ここまで書いていて、この細やかさ、繊細さが「3」の魅力であることを改めて感じさせられる。音楽に篠笛を導入したことも、十年で終わる人生を生きる主人公たちの儚さにマッチしている。
 儚く、か細い、矮小な存在である人が、その矮小さを忘れるために永遠を求めた。それがアイオニオンの信仰であり、敵の信念だ。
 主人公たちはその矮小さを知る。むしろ思い知らされる。作中で唯一人間らしい生活をしている「シティー」の人々にも、祖先からのしがらみにまつわる煩わしさがあったり、家族からの愛を受けられなかった子がいたりする。人が人らしく生きたところで、常に幸福が訪れるとは限らない。
 アイオニオンの信仰を打ち破ったところで、人の弱さは変わらない。それでもなお前に進もうとした背景には、強大な敵として現れたNの存在がある。露骨にネタバレをすることは避けるが、これこそが主人公たちが先代と同じ轍を踏まなかった最大の理由なのだろう。
 自分と同じ道を進もうとしながら、その道から外れてしまったN。彼の内面を知り、その思想に触れた主人公は、自らの弱さに向き合い、Nを否定する思想を得る。Nの内面にあった葛藤を知り、そのうえで乗り越える。
 理屈はわかる。納得もできる。しかし、個人的には主人公本人の葛藤をもって、この思想を得てほしかったとも思ってしまう。
 この点は、「3」で最大の心残りだったかもしれない。だから個人的にはDLCが出るのならこのNの葛藤について掘り下げてほしいのだが。まあ、正直あのエンディングを見た後であれば、主人公たちが平和に暮らしている姿が見られたらそれだけでいい。せめてそれだけでいいので。

おわりに

 クリア時間は80時間程度。確か「2」と同じくらいだったと思う。
 エンディングが終わったとき、久しぶりに嗚咽が漏れる感覚を味わった。

「ゼノ」という接頭辞には「異質なもの」という意味があるという。「異質なもの同士の関わり合い」が、「ゼノ」シリーズの根幹にある。

「ゼノブレイド」シリーズに限って言えば、「1」と「2」はこの異質なもの同士が接触したことの動揺から、その平定を描いていると言える。旧弊な秩序を脱却し、新たな地平を切り開く。

「3」の場合も、これまで以上にはっきりと異質なもの同士の関わり合いが見られる。しかし、「1」「2」とは異なり、動揺から平定へのプロセスは物語の敵が担っている。主人公がもたらすのは、「3」の世界から見れば新たな動揺だ。「1」「2」との差異を全く予想していなかった私は、エンディングを見ている最中から泣き続けてえらい目に遭った。感涙に結びつく神経がこれほど残っていたとは知らなかった。クリアしたのは夜中だったのだが、結局それから小一時間泣き続けてお盆休み明けの出社に支障が出るほどだった。

 それだけの目に遭いながら思ったのは、シリーズを通してプレイできた喜びだった。

 思い起こせば、私が「ゼノ」シリーズに触れたのは、『ゼノギアス』のファンだった複数名の知り合いが関わっている。だいたい『ゼノギアス』自体が奇妙な存在で、私は攻略サイトを見ながらサクサクプレイしていたのだが、作中の描写のえぐみや、いい意味での余裕のなさ(いい意味でないかもしれない……)を今でも強烈に憶えている。その衝撃から始まった『ゼノブレイド』シリーズは、過去からの変化に思いをはせながら、それぞれに感動をもたらしてくれた。その感動の行きつく先に「3」があり、一区切りとはいえ続く予定であるという。前向きに考えたい。(後ろ向きに考えれば「3」の諸々の説明不足感はこの続けていきたいという意思によりもたらされているのではないかと思ってしまったりする)

改めて、このシリーズを通してプレイできていることがうれしい。良い作品でした。

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