からっぽ

人から「あなたはしあわせそうでいいね」と言われるときに感じる違和感がある。
そのこたえに、最近気がついた。

わたしは一般的に「しあわせ」と言われることを得るために行動していた。
わたしのことを愛してくれている人と結婚し、こどもを授かり、家をたて、夫の両親もやさしくしてくれ、働いてもいいし働かなくてもいい、豪華ではないが困ることはない生活をしている。
絵に描いたようなしあわせな人生だろう。
そう言われるような、幸せの定型文みたいな生活を得るために必死だった。

しかしすべてを手に入れ、あなたはしあわせだねと言われる生活をみて、果たしてどうか。

そこにはからっぽの自分が体育座りで部屋の隅っこにいた。
こどもをかわいいと思うことも、「電車を見て手を振るこどもはかわいいのだから、うちの子はかわいい」とまわりくどい考えになる。

わたしは自分のしあわせのために動いたことなどなかった。
ひとからしあわせだねと言われることがしあわせだと思っていた。

そんな学校にはいって、親孝行だね。
いい会社にはいってすごいね、親孝行だね。
結婚してしあわせだね。
こどもができてよかったね。

この経歴をもつわたしはしあわせだろう。
この家族をもつわたしはしあわせだろう。
そう思ってがむしゃらに突き進んできた。
自分できちんと選んできた。

それなのにからっぽだ。
ひとからしあわせだねと言われて自分に言い聞かすしあわせなんて。
こんな人生を送ってきたのだからわたしはしわあせだと言っていなければいけないのだ。
泣き言をはいてはいけないのだ。
ないものねだりだと言われるのがいやなのだ。

こんなにもこんなにも、誕生日が憂鬱なのははじめてだ。
生まれてこなければよかった。
ほんとうにむだな人間だ。
根性もなく、ただただまわりに迷惑をかけ、へらへらとして、口ばかり達者な頭でっかち。
なにものにもなれない。
おんなとしても、妻としても、母としても、オトナとしても。
どれにもなれていない。
いてもいなくてもいいだなんてあまっちょろいものじゃない。
いないほうがいいなと思う。

なんにもできなくても、なにものでもなくても、
ここにいてもいいんだという安心感が、ほしい。

妻になれば得られると思っていた。

母になれば得られると思っていた。

わたしはからっぽだった。
穴のあいたコップにはなにも溜まらなくて、ただ切り口で怪我をし続けるだけだ。
ていねいに扱おうとしても、失敗してすぐに血がでる。

あいた穴をふさいでくれますか。
ながれた血をとめてくれますか。

ほんとうは、あいた穴も、ながれた血も、自分でどうにかしないといけない。
だれかに頼ろうとするのは、やっぱりわたしがからっぽだからなのだろうか。

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