過去の自分を肯定する

大阪時代にお世話になった方へ、あのときいれていただいた工芸茶が懐かしいですと書いて年賀状をだしたら、ご丁寧にも「新築祝い」としてあの工芸茶が届いた。

物乞いをしてしまったなぁ、しかも新築祝いにすれば受け取りやすいだろうという配慮だろうなぁ、ほんとうに、いつまでたっても頭がさがる。


わたしは2010年の4月から、関連工場で勉強してくるようにと会社に言われて、住み慣れた青森を離れ、大阪へ引っ越した。

初めてのひとり暮らし、慣れない関西弁、東北とはまるでちがう習慣。

引っ越した日に役所まで歩く途中、「こんなに小さい子まで関西弁をしゃべっている!」と驚いて、それも当たり前か、と思い直したことを今でも覚えている。

青森では「おまえは大阪のほうがあっているんじゃないか」と言われるほどやかましかったので、会社の雰囲気にもすぐに慣れ、どの部署の人もおもしろく、そして優しく、ほんとうに楽しい仕事時間を過ごした。

一転、アパートに帰るとひとりぼっちで、4人兄弟に両親、祖父の7人で暮らしていたわたしは、その時間が相当寂しかったのだろう。

うつの兆候がみられたのははやく、7月だった。まだ大阪にきて3ヵ月だった。

これは危険かもしれないと思った。家にいるとき、常に死に方ばかり考えている。

部屋にぶら下がった蛍光灯にロープを巻き付けたら死ねるだろうか?

いま線路に飛び降りたら死ねるだろうか?

いま道路に飛び込んだら?

洗剤を一気飲みしたら?

ずっとそんなことばかり考えている自分にハッとして、すぐに会社に相談した。

仕事も職場の人も大好きだったので、ずっと会社にいたかった。

何回かカウンセリングを受け、当時付き合っていた彼氏(今の夫)からの励ましもあり、一度は持ち直した。

心配した同期もことあるごとに飲み会やご飯に誘ってくれ、わたしのことを気にかけてくれた。


そんなわたしの話を聞き、会社の相当えらい方から、今度うちへ食事へ来ないかと誘いがきた。

年の近い娘もいるし、大阪のいろいろなところを一緒に観光しようと言ってくれ、ありがたくそのお誘いを受けることにした。

当日は奥さんと娘さんと4人で、大阪の出汁がきいたおうどん、アメリカ村、道頓堀、たこ焼き屋台と、電車では行きづらいところまでたくさん案内していただいた。

夜にはお宅に招待され、ほかのご家族と一緒にお好み焼きをいただき、食後にでてきたのが、冒頭に述べた工芸茶だ。

まん丸の少し褪せた緑色の物体が、お湯の中でだんだんと花開いていく光景にずいぶん感動したことを覚えている。

そんなによくしていただいたのに、わたしはまた死ぬことばかり考えるようになり、もうどうにも、立ち行かなくなった。

青森の同期へ電話したことがきっかけだったと思う。

「そんなもんだよ。みんな大変なんだよ。わたしのほうが―」

これ以来、わたしは「みんなそうだよ」という言葉が苦手になる。

みんな大変だから、わたしもがんばらなくてはいけない。

みんなはもっとがんばっているのだから、わたしももっとがんばらなくてはいけない。

会社にいる時間以外は寝ていることが多くなった。

決心したのは10月下旬だった。

大好きなアーティストのライブが大阪である。ライブは今週末だけれど、コンビニに行ってまだチケットが余っていたら買おう。

まだそんなに知る人が少なかったアーティストだったので、チケットはまだあり、導かれるようにわたしはライブ会場へ足を運んだ。


ライブは衝撃的だった。1曲目から涙が止まらなかった。

曲のフレーズひとつひとつが胸にしみこんでいく。

自分はつらかったんだとやっと認識した。

勉強したことを青森に持ち帰り皆に伝えなければいけないプレッシャー。

女性でこれをやるのはわたしが初めてだから、絶対にリタイアしてはいけないという思い込み。

もうすべてを諦めて、病院へ行こうと思った。

解決策を教えてくれるかもしれない。

ひとりで抱え込まなくてもいい。


ライブの次の日、会社と提携している精神科医を訪ねた。

行くまではひどく足が重たかった。

駅のホームをちょっとも進めない。

彼氏と電話しながら、励ましてもらいながら、やっとのことで着いたことを今でも思い出す。

電話で行くことは伝えていたけれど予約外だったため、昼過ぎにはついたが5時くらいまでは待ったと思う。

先生に会って、なにを話したかは覚えていない。

ずっとずっと泣いていたことと、「いますぐ青森に帰りなさい」と言われたことは覚えている。

時間が時間だったのでもう青森へ帰る手段は残っておらず、翌日に帰ることになった。

冷蔵庫の中のものを同期にあげたり捨てたり、洗濯機を回したりして、ほんとうに帰らなくちゃいけないのかな?と思った。


それからのことは、あまり覚えていない。

何度か自殺未遂をしたこととか、ずっと布団にいたこととか、とにかく毎日が灰色だったなと、ぼんやりとした記憶はあるけれど、それ以外にはあまりない。

記憶がないことにも最近気づいた。

引っ越しの荷物を整理していたら昔使っていた携帯がでてきたので電源をいれたのだが、送信メールを読んでずいぶん驚いた。

そこにはまるで別人のわたしがいたのだ。

知る限りの汚い言葉を使う自分、同棲をはじめていた彼氏への罵詈雑言、こんなことがよく人に言えたなというメールの数々。

わたしはほんとうにこんなメールをあなたに送っていたのか?と聞いたら、「え?うーん、まぁ‥」と夫がにごすので、まったく身に覚えがないことを伝えると、普段感情をあまり表に出さない夫が「え!!」と至極驚いたのだ。

よくこんな人と結婚したね‥と本気で言ったが、「俺が守らないとと思ったから」とうれしい言葉をもらい、ニヤニヤした。


そんなわけで、2011年から3年ほどの記憶はない。

これが妹の中学時代にすっぽり当てはまるため、中学生の妹の記憶がないことがほんとうに残念である。


大阪時代のことを思い出すと、仕事をまっとうできなかったことをいつも悔やむ。

どうにかして3月まで頑張れなかったかと思うのだが、

それでも、3月までいたとしても、3月までいたとしたら、

わたしは、大阪のひとりの部屋で、あの震災の映像を、見なくてはいけなかったのだ。

連絡の取れない家族や恋人、生まれ育った土地が炎に包まれている光景、父が育った街の情報が一切入ってこないこと(被害が多く、津波から逃げた先で火災が発生し、映像を残していた人も助からなかったのだろうと聞く)、岩手沿岸に住むたくさんの親戚、知り合い、行方不明の祖父。

ひとりで見られただろうか?

情報をシャットアウトしたところで、会社に行けば話の中心になるだろう。

会社に行けたかな?

きっと、10月にうつになっていなくても、3月のあの地震でうつになっていた。

しかも、帰りたくても青森には帰れない。

無事に見つかった祖父も4月11日に亡くなったのだが、「おじいちゃんが息をしていない」という電話をもらってすぐに病院にかけつけることも、できなかっただろう。


それを思うと、わたしがうつになった理由のひとつは、ここにあるなといつも思う。

あの震災を家族や恋人のそばで体験できたこと、祖父に会えたこと、そのために、うつになったのだと思う。

うつになっていなかったら、と思うとおそろしい。

今よりひどい事態になっていたかもしれない。

わたしはうつになってよかった。途中で帰ってきてよかった。よかったんだ。

そう過去の自分を肯定して、いまはお湯の中で花が開くのをじっと待っている。

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