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あなたの人生の軸は何ですか


最近会社で現場社員として新卒採用面接をするようになった。たまに人事がこの手の質問をしているのを隣で聞いて、苦々しい気分になる。そのたびに自分が就活をしていたときを思い出す。自己肯定感がバキバキに削られた日々。自分と他人を比べて、自分は何もないと思っていたころ。
何があんなに辛かったのだろう。量産型サイボーグのような同じ服装髪型メイクをさせられること? 一方的に質問されジャッジされること? "社会"の価値観を押し付けられること? どれもそうだが、私が一番恐ろしかったのはたぶん、「わかりやすい物語」を求められたことだった。​


人生の軸とストーリー

就活の初期段階、面接官に自分という人間を説明するために、就活生は「自己分析」を行う。
「自己分析」とは、自分はどんな仕事をしたいのか、強み弱みは何か、どんな性格・価値観なのか、といったことを、今までの経験をもとに探っていくものである。

そして自己分析において特に大事なのは、自分の「軸」、自分の人生を貫くひとつの価値観を見つけることだ。
幼少期からの自分の行動、楽しいと感じた瞬間、全力を尽くしたこと、価値観が変わった経験、などを書き出し、それらに共通する価値観・判断基準を探す。例えば、「常に新しいことに挑戦したい」「人を喜ばすのが好き」みたいなまあそんなかんじの。
それが見つかると、我々は自分の人生をダイジェストで語ることができる。


「私は幼少期からこんな子供で、~な環境で育ってきた。また、~という経験によって、αという軸を持つようになった。だから、学生時代もこんなことをしたし、いつもこういう行動をしている。御社を志望しているのも、軸αに合致しているからである。入社後はこんなことがしたい。」 


これはいわば、人生における事象a.b....nに、αという一本の軸を通す作業である。
自分の過去~現在~未来を、一つの中心線によって結びつけ、因果関係のはっきりしたストーリーで語る。
それができるようになってから、私は面接に通るようになった。今まで怪訝な顔をしていた面接官が、うんうんと頷きながら話を聞いてくれた。私が自分自身を語る声は自身に満ちていた。でもむしろそこから、精神の基幹パーツがズレたまま走っている違和感が、取返しのつかないほど大きくなっていった。


私が今喋っているこの人生は、いったい誰のものだろうか?

私の、我々の人生は、

こんなふうにひとつの中心線を持つ文脈立ったものなのだろうか?


今なら違う、と言える。人生はわかりやすいストーリーではないし、我々人間は矛盾だらけの混沌とした存在なのだから。
無意識や気分によって何を選ぶかは変わるし、誰と一緒にいるかによっても自分という出力形式は異なる。人生の選択なんて、たいていは偶然だったり、制限のなかでやむをえず選んだり、そもそも選ぶことすらできないことだってある。現時点では意味を与えることもできない出来事、結論が訪れる前に突然終わってしまったこと。むしろそういうものが私を作っている。そのようになんとか生きてきた道を、ストーリーでまとめることはできない。それは論理の暴力だ。


論理による再構成

これが本当に恐ろしいのは、この軸探しによって仮想的に作り上げた軸=論理を、「そうか、これが私の本質だったんだ!」と"発見"してしまうことで、遡及的に自分という人間をその軸でもって再構成してしまうところにある。これは真面目で論理性の高い学生にしばしば見られる。文脈に合うものを選び取り、合わないあやふやなものは捨てる。なかったことになる。分散したものは弱く、一つの中心で結ばれたものは強い。したがってここに"本当の"自分が強固に現れるわけだが、その際に捨象してしまったものはどこへ行ってしまうのだろうか。
だから、面接で自分について文脈立てて話していたとき、私の実存は血を流していた。私を”わかりやすく”伝えようとすればするほど、私の姿はどんどん私から遠ざかっていった。一方で、同じ話を繰り返しているうちに適当に考えたことも本当のような気がしてきて、自分が何を考えていたのかわからなくなった。


ストーリーの功罪

もちろん自己分析やストーリー化を否定しているわけではない。
人に何かをわかりやすく伝えるにはストーリーで話すことは不可欠だからだ。曖昧な私をそのまま理解してねというのはただの甘えである。
そして、自分自身に問いを投げかけることによって、自分の根底思想を発見しようという営みそれ自体は正しい。多分就活という機会を利用して、それができた学生もたくさんいただろう。行動して、自分自身と対話して、思考して、我々は自分を発見していく。そうして自分のなかにすとんと落ちるストーリーを見出す。我々はそのストーリーに支えられて生きていくことができる。
でもそれと、自身を論理で再構成するのはやっぱり違う。グレーな曖昧なものをグレーのままにすることを彼らは許さない。それは「自分のことがわかっていない」状態だとされる。 しかも、その軸探しはあくまで社会という下敷きのもと行われる。その軸は、社会にとって、労働にとって都合のよいものでなければならないのだ。


ストーリーは人を救いもするし苦しめもする。ただ一つ言えるのは、ストーリーの手綱を他人に握られてはいけないということ、だと思う。




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