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スペキュラティブ・デザインが持つ「不気味さ」について

武蔵野美術大学大学院造形構想研究科クリエイティブリーダーシップコースクリエイティブリーダーシップ特論 第3回 長谷川愛さん

4月24日、デザイナー/アーティストの長谷川愛氏の講義を聞いた。長谷川氏は、スペキュラティブ・デザインという手法で、創作活動を行っている。
そもそもスペキュラティブ・デザインとは何か。

●スペキュラティブ・デザインとは「問題提起」

『スペキュラティブ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。—未来を思索するためにデザインができること』(アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー著 久保田晃弘監修 千葉敏生翻訳 2015年)を参照すると、この文脈で使われるスペキュラティブ(speculative)とは「批判的で議論を呼び起こすことを通じて、問題を発見し、問いを立てる」ということらしい。
また長谷川氏は自身のデザインの在り方について、「人間の先天的・生得的に備わっていると思われることを疑う」ということを話していた。
つまりスペキュラティブ・デザインとは、「『当たり前』への疑念を強制的に喚起させる力が強いデザイン」と、置いてみて、そんなに間違ってはいない、と思っている。
また、基本的には(実態のある・タンジブルな)プロダクトのデザインを指すことが多いようだ。日本人ではスプツニ子!が有名で、彼女の作品をみれば、なんとなく分かるのではないかと思う。

●「不気味」という感覚を喚起する未来

さて、概念的に一応は理解したとしても、実際に作品をみると、「なるほど、こういうものか」というスッキリとした腹落ち・納得ばかりではなく、「不気味さ」「グロテスクさ」を伴う感情だった。
前者の「腹落ち」感が強かったのが、“ALT-BIAS GUN”という作品。後者はとりあえず“HUMAN X SHARK”“I WANNA DELIVER A DOLPHIN…”としておく。

この差は、我々が感じている「当たり前」との距離感が関係している。
前者の“ALT-BIAS GUN”は、人種(黒人)差別に対するアンチテーゼを表現しており、これはすでに市民権を得ている考え方だ。一方で、後者は「人間の女性が、人間の男性以外の生物と関係を持つ」という、社会の(少なくとも私の)当たり前とは、距離が遠く、市民権を得ていない考えである。

ただし、 “HUMAN X SHARK”と“I WANNA DELIVER A DOLPHIN…”を「不気味・グロテスク」と感じるのは、社会的に馴染みがないから、というだけではない。そこには「馴染みのなさ」だけではなく、同時に“リアル感”も存在している。

プロダクトに限らず、絵画でも映画でも小説でも、表現物が完全な空想/全くあり得ないファンタジーだったら、この種の感情は呼び覚まされない。「今の常識に照らし合わせるとあり得ないけれども、もしかしたら起こりえるかも・・・」という感情がこれらの作品から喚起されるのである。

少し脇道にそれると、私が以前にこの種の「不気味さ」を覚えたのは、プロダクトデザインではなく、文学作品(フィクション)だった。カフカの小説『城』である。『城』は、朝起きたら虫になってしまうという同作者の別の小説『変身』と異なり、科学的に非現実な現象が起こるわけではない。ただ、主人公が理解不可能な、けれども何となく共感できる不条理に振り回されるという話だ。この「理解不能な」と「共感できる」両方を備えているのがポイントだ。

もともと私は、言葉で味わる文学作品と、絵画・彫刻や映像などの視覚表現とでは、異なる気分・感情・思考などを経験すると思っていた。
それが、カフカの小説を読むと、デ・キリコなどシュルレアリスムの絵画と極めて近い感覚を得る。うろ覚えだが、精神分析学者のフロイトの解釈では、不安や恐怖を引き起こす「不気味」という感情は、「馴染みがないというだけではなく、見る人の中で抑圧されている何かが喚起されるから発生する」というものだった記憶がある。この『不気味』の捉え方は、「今現在の社会の『当たり前』」が抑圧している「何か」を表現しようとしている“HUMAN X SHARK”と“I WANNA DELIVER A DOLPHIN…”などのスペキュラティブ・デザインにも通じている、感じた。

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