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短編集

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これまでに発表した短編小説をまとめています。
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二人、滑っていく星の下で

 目が合えば、スーツを着た女の人は足早に去っていった。雨足が強くなっていく。公園の芝は水を吸い、街灯の白い光で淡くきらめいていた。ベンチに腰掛けたまま上げていた顔を下ろしたら、胸がひざにくっついて。重たい頭。こみ上げてくる胃液。また吐いた。吐いて、雨に濡れた手の甲で口元を拭えば、肌がぬるり。口からアルコールが蒸発していくような気がした。

 ちらつく。こずえの下に溶けていった黒い背中が。彼女の手に

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男らしく女らしく、人間らしく自分らしく、あなたらしく

 男らしく、女らしく。そういった言葉が枯れて、色が暗くなっていく隣で、引っこ抜かれていくそばで、こんな言葉が花を咲かせています。日を浴びて、与えられた水を弾いて、きらきら瞬いているんです。

 人間らしく、自分らしく、あなたらしく。

 でも、その色も葉の形も、脇で朽ちている花唇のそれと同じだって、私は思うんです。

 男らしく、女らしくの花言葉でパッと思いつくのは、抑圧、制限、規範、重圧、規定で

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神様の原稿用紙

 くもり空の下で裸足になって、波打ち際に立ち、一歩踏み出そうとしたときでした。紙が何枚も飛んできたんです。舞って、舞って、潮に落ちて。色が、形が、変わっていきます。

 灰色の水がしゃぶっていたのは、原稿用紙でした。赤い格子が、暗い水面を淡く彩って。捕らわれていた黒い文字が、じんわりとにじんで。溶けていきます。腰を曲げ、足首に絡まった一枚を拾い上げたら、水に噛みつかれて。破れて、ちぎれて。白波に呑

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世界観

 描かれた世界観によって、目の前はすっかり覆い尽くされています。それどころか、その世界観に合致しない存在は、そこにいると世界観を破ってしまう存在は、レッテルを貼られ、場所によっては狩られています。

 見ない聞かない考えない。あったとしてもつもりだけ。願望や希望、明るさで塗りたくりながら眺めることを見るとは言わない。聞きたいことだけに、やまびこだけに耳を傾けることを聞くとは言わない。心地よい意見や

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あのひまわりの花唇のように

 畑のひまわりを、できるだけ胸に抱えて。あぜ道を駆けました。駆けて、駆けて、そうしてやっと見えてきた、山際に茂る、濃い竹やぶ。せり出した緑の影が、道を覆っていました。

 そんな厚い色に迫られている、一軒の平屋。すぐそばを、用水路が這っていて。その脇に、ひまわりを置いて。日陰に座り込み、緑色の染みた指で、花びらをむしって。一枚一枚、スカートのポケットへ。そっと、詰めました。汗を垂らしながら。お尻が

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初日の出

 カビっぽいにおいのするクリーム色のコートを羽織って、リュックを背負い、濃い緑色の杖を握って。あけぼのの蒼に足を浸せば、降りていた霜が、目玉に張りつきました。ぼうっと光る膜。家の前の細い道も、正面にある田んぼも、用水路に生えている苔や雑草さえ、青白く息をしていて。まばたきをして目を擦り、仰向けば、薄い雲が一条、まだ見えない太陽のほうへと昇っていました。

 空の一角を染めている、山の上の熱っぽい琥

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おはじき

 学校から帰ってきて、玄関の戸を開けようとしたら、庭のほうから硬い音がしました。敷居をまたぎ、ローファーを脱いで。ろうか伝いに音の残りをたどってみたら、縁側に妹がいて。四つん這いになりながら、一人、床を見つめています。セーラー服のスカートから、太ももがこぼれていて。白い肌が、夕日で薄赤く染まっています。妹の顔が動くたび、一つに縛られた長い髪が、背中の上を泳いで泳いで。汗できらめく、耳の後ろ。後れ毛

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ありのままの自分で

 ありのままの自分で、あなたでいいって、優しそうな顔は言います。けれど、ありのままの自分って、いったいなんですか。

 たとえば今この瞬間、私がありのままの自分でいることを選んだとして、それは本当にありのままでしょうか。私という人間は、あふれている価値観や考え方、文化に思想に社会に、親に他人によって既に汚染されています。無数の言葉を、概念を、見方を、稲みたく植えつけられているんです。品種改良をした

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「なんで母の日に何もしないの?」

「なんで母の日に何もしないの?」

 そんなニュアンスの言葉に、これまで何度か触れてきました。そのたびに思うのは、祝うことが、感謝することが、どういうわけか義務になっているということです。

 お花とかお食事とかお手紙とか、別に何でもいいけれど、とにかくそういったものを通して謝意を伝えなければならない。そういう日になってしまっています。

 でも感謝は義務じゃありません。子は母親に感謝すべきだ、み

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歌詞を書いてと頼まれて

 歌詞を書いてほしいって、そう言われたことがありました。

 無理かなぁって返事を送って、そうしてお風呂から上がってきたら、その子から通話がきていて。出たら、お願いって、まじめな声がにじんできました。

 私は渋りました。そもそも音楽なんてものに縁なんてなかったからです。私は音痴でした。カラオケで言えば、六十点台前半がやっとです。

「なんで私なん?」

 そう問わずにはいられませんでした。私はた

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落としたもの

 とぷんと心を落としてしまったので、買いにいってみたのですが、どこにも売ってはいませんでした。

 だったらイチからつくろうと、今度は材料を求めたのですが、肝心のレシピを知りませんでした。検索してもネットが繋がっていなくって、接続しろという命令しか出てきませんでした。それならと、メモ帳を手に、記憶の舌でぺろぺろ舐めて、どんな味か研究してみたのですが、甘くて辛くて無味でした。

 交番を見かけたので

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頭いいねって言われるたびに

 頭いいねって、いろんな子に言われてきた。それが本心なのかお世辞なのか、あるいはバカにしてるのか皮肉なのか、そんなのは正直どうでもいい。私は、頭がいいっていう表現それ自体がたまらなく嫌いで、怖い。

 私は、頭のよさのレベルを自分で選んで生まれてきたわけじゃない。だから、お前ブスなと言われているのと本質的には変わらない。褒めていようが貶していようが、そのどちらのつもりであったって、自分で選んだわけ

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切り捨てられた感情

 ずっと、あいつのことが嫌いでした。
 あいつは私が生まれる前に、私を捨てていなくなったから。
 顔も名前も知らない、知りたくもないあいつは。

 こういうことを打ち明けると、人は私に言うんです。
 乗り越えて、強く生きなきゃいけないって。
 つらいのは君だけじゃないって。
 もっと大変な思いをしている人だってたくさんいるんだぞって。
 お前は幸せにならなきゃいけないって。
 不幸自慢はやめろって

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悔恨

 マウスに重ねた手のしわを見て、そうして首をごしごしと撫でたら、垢がほろりと取れました。自分の老いを、かすむ目でぼうっと見ております。

 今になって思うのは、若いときのことばかり。真実を、ありのままを語ってくださる人の言葉を、もっとちゃんと探せばと。聞けばよかったと。

 傾聴してはいけなかったのです。努力すればとか、こうすれば幸せになれるとか、日々に感謝しようとか、人間としてとか、成功するには

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