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掌編集

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これまでに発表した掌編小説をまとめています。
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記事一覧

 正しさという傘の種類が、もしビニール傘だけだったら。そう唇だけで笑わずにはいられません。握っている白い柄だけが共通で、そこから先は様々なんですから。色も形も、素材も模様も大きさも。機構だって。あと一緒なのはそう、どの傘も空想だってことでしょうか。

                               (了)

自己規定という名の呪い

 自分を規定せずにはいられないんですねと、その人は悲しそうに微笑していました。

 他者による規定には怒り、悲しみ、傷つき、抵抗するのに、自らによる規定には一切逆らわない。それどころか、積極的に自分で自分を決めようとする。線を引き、色をつけようとする。自分というものに言葉や概念を、価値観を感覚をあてがって、新たな、自分だけの区分を創り出しては設定し、そこにその身を配置する。つまりはそういうことなん

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私はコピー

 私はコピーです。存在をやめた、観念の写し絵なんです。私は、あらゆる単語や表現が、価値観が空気感が滴らせている色そのものです。私は、私という何かをやめ、あふれている言葉を、考えを、概念を、価値観を、ただ肉体に吸わせただけのものです。だから私はコピーです。自ら生み出すこと、自分で選択すること、そういったものに含まれている難問の一切は全部投棄して、自分で考えた、自ら選び取ったという言い訳だけを残し、存

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ぼーっとする時間は大切だ

 ぼーっとする時間は本当に大切だと、あなたは私におっしゃいました。創作や新しい発想に繋がるからとか、効率が上がるからとか、集中力がどうだとか、脳やリフレッシュがどうこうとか、こういうのにいいとか、無駄に見えても重要な意味や役割があるんだとか、いろいろな理由を添えて。

 だとしたら、そのぼーっとする時間は、創作や新しい発想とやらに隷属させられているのではありませんか。効率や健康、役割の奴隷ではない

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あの人

 あの人ならどう書くんだろう。

 そう思った。広い公園の隅の、石のベンチに腰かけて、目の前の夜をぼうっと見つめながら。

 何も浮かばなかった。一つとして言葉は出てこなかった。でも、あの人なら。あの人なら、この感覚を、心を、どんなふうに。

 スマホを取り出して、その人のところへ飛んだ。今日は更新されてなかった。太ももに載せて、空を見上げた。星はなかった。

 一人じゃなかった。こうやって仰いで

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狂い雨

 雨音は、ひどく汚れています。美しさや悲しさ、虚しさや痛み、嫌悪感なんてものが、酔いが、事実として溶かされているんですから。

 どうして雨音を、雨音として聞くことができないんでしょう。なにゆえ雨音に、意味なんてものがあるんでしょう。雨音に触れることができない耳を、指先を、絶えず呪っています。穢しているのは自分自身なんですから。

 一歩たりとも近寄ることの敵わないこの体。すっかり歪んでしまった目

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眠り

 お水をね、ひたひたになるまでついで、そうして飲めばいい。ちょっとだけ臭い、もしかしたら臭くないかもしれないけど、とにかく水道のお水を。一杯二杯と喉を鳴らしたら、そのうちトイレにいきたくなる。そしたらお手洗いにいけばいい。そこで自分を、存在を聞けばいい。生きてる音を。戻るときはまたお水を一杯でも半分でも飲んで、それからお布団に倒れ込めばいい。まぶたを閉じることだけが、意識の断絶だけが眠りじゃない。

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小さな石よ

 ざらざらした、尖ったところのある小さな石よ。聞いてください。本当に私には、生活する、生きていく力がないんです。どうしてでしょう。人は努力を説きます。命じます。ですが、努力できることさえ偶然じゃないかという事実については触れません。殴られずに生きていられることも、殴らずに生きていけることも、たまたまではありませんか。あなたなら分かってくださるでしょう。あなたがざらざらしていることは偶然で、恐らくカ

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小声

「賞、お金、評価、名誉、称賛、価値、貢献、他者の救済、読んでくれるたった一人。これらすべてに最後まで無縁だとして、それでも書けるかどうか。インターネットもない。身近に誰もいない。あるのはただキーボードか、紙とペン、いや、もはやそれすらないとして、それでも書けるなら。そういう人が残したものを読みたいと思う。それはきっと、本当だと思うから。その人だけの言葉であろうから。その書かれたものは描かれたもので

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死の指

「あなたはわたくしを尊敬していると、信頼していると、好きだと、そうおっしゃいました。ですがわたくしは、あなたに尊敬などされたくありません。誰かを尊敬することを、尊敬できる人に恵まれることを、あなたはよいことだと、幸いだとお考えなのかもしれませんが、尊敬のまなこで人を見ることもまた偏見だということ、あなたはお考えになったことがありますか。あなたはわたくしに、何か光を見ていらっしゃる。ですがその光が、

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本当の自分

 本当の自分っていう表現を、ずっとしてきた。

 こんなのは本当の自分じゃないって。本当の自分でいられるのは、こういうときだって。

 でも、あるときふっと思った。本当の自分、それはいったい何なんだろうって。本当とか偽物とか、そんなふうに、すっぱり切り分けられるんだろうかって。

 仮に本当の自分なんてものがあったとして、じゃあ、偽りの、嘘の自分として削がれた肉は。

 ずっとごまかしてきた。違和

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 あぜ道のまんなかの、凍った水溜まりには月光が閉じ込められていた。そっとしゃがんで指を伸ばせば、冷たさに阻まれて月には届かなかった。硬さと痛みだけがそこにはあった。

 舗装された道へと出れば、鎖された丸い水が、ぽつんと佇んでいる街灯であたたかく燃えていた。かがんで手を重ね、体重をかけたら、軋んで割れた。輝きは散らばり、きらめきの輪が蒸発していく。残ったのは氷の破片と、破片と塊と、冷たい人工のひら

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身震い

 かぶっていたフードが、巻いていたマフラーが重たくなった。夜雨が太ももに、足首にへばりついてくる。歩くたびに、スニーカーがぐちゅぐちゅと、その喉を鳴らした。びゅうと風が吹けば、ひりりとした。ちらと目だけ仰向けば、街灯の白い光のなかを、雨が火の粉のように散っていた。家々に挟まれた裏道は、水路の心音で濡れていた。

 うつむきながら早足を続ければ、前のほうから気配がした。顔を上げれば両脇の、生命からあ

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自分が汚く感じる

 人の醜いところが目にこびりついたとき、他人の汚れで心身を穢されたとき、声を上げようとする。そのたびに、ふっと視線を感じる。そのひとすじは、過去という汚臭だった。

 それは何も言ってこない。わらいもせず、怒鳴りもしない。およそ一切の表情がなく、ただこちらを正視してくるばかり。

 生ぬるく、鋭く、熱く、ぬめり、冷たく、ぶよぶよしているその視線を、おっかなびっくり見つめ返せば、言葉がのどから消えて

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