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18. 違った種類の透明感

ぐるぐる 考え続けることをやめられず、やけも入ってそのまま突き進んでいたら、近くで見ていた人から「パンクしている」と指摘があった。
『何かが変わり、新しい思考の段階に入った』と思ったのは勘違いで、考えは行き止まっていて、浮遊感とむなしさが同率の混合物に包まれているみたいな感覚の時だった。
のしかかっていた物も何だったか分からなくなり、せっかくなので思い出そうとするのはやめて、1人の時間をできる限り何も考えずに過ごしてみた。


ほったらかしたら、自分はカウチポテトになった。最近はポテトチップスよりお煎餅が好きだけれど。

惰性に任せる罪悪感をもみ消さずに一緒にソファにのせて、映画やドラマ、動画を観、たまにスマートフォンを触ったり、疲れた目の自然な反応で遠くの山を眺めたり、その合間に時刻を気にせずに眠ったりして過ごしていた。好きなのに、読書や庭仕事は遠かった。

これまでずっと、時間も決めずに やるべきイメージのことを後回しにして、脱力して過ごすのは、だらしなさの象徴だった。でも、いざそうしてみたら、案外、情けなくも汚くもなく、そう感じてはいけない気がしていたけれど、シンプルに楽だった。
そこには駄目な人間ではなく、画面に向かって、ニコニコし、声を出して笑い、泣き、歌い、たまに踊り、眠る 自分が居るだけだった。
リラックスを超えて、たがを外された状態の自分。

何日間かのそんな時間は、
ミュージックビデオや、ライブ動画、ファッションショー、人が何かをひたすらつくっている映像、登場人物の関係性があたたかい映画やドラマ を、昔から好きだったことを思い出させてくれた。どれも人が中心のものだったのは少し意外だった。
美しさ、共有される喜び、創造性と安心、優しさと好きという想い、平和、がベースにあることも共通していた。


画面の世界に長く観入った夜、洗面台の鏡に向かった時、そこに映った顔が、何だか、誰なのか、一瞬わからない感じがした。居るはずの人間が薄い…
たまに映画でみる、時空を超えた操作で、ある人がだんだん透明になって消えていくのに似た恐怖感があった。


好きなスパイスガールズの曲の「too much of something is bad enough」という一節が浮かんで、たがの外れっぱなしも危ういな、という方向に意識が向いた。
時間がかかってもパンクの傷をしっかり修理して、そこからは、透明感は肌で追求できるように、少しずつONとOFFの良いバランスを目指そう。








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