匿名希望

なんと声をお掛けすればよろしいのでしょうか。声を掛けるという表現も誤用であるような気がいたしますが、すみません、あまり良い語句が見つかりません。今どんな状況ですか。朝ですか。昼ですか。夜ですか。あなたは誰ですか。残念ながら、今に私がそれを知ることは、不可能であると今の私は考えています。全くもって私は、あなたが分かりません。「はじめまして」と書くべきなのか、「こんにちは」というべきなのか、「久しぶり」というべきなのか。測りかねています。


改めまして、なんとお声をかけたら良いのでしょうか。
ブログというものは、不思議なものです。気になって調べてみたのですが、ブログというのは、weblogの略称であり、インターネット上に日記や趣味などの話題を文章で書くサイトのことを示すようでした。私の書いた文章がインターネットに載り、インターネット利用者であれば誰でもブログにアクセスし、その文章を閲覧することが出来ます。不思議ですね。

今回、「自分について」という題で文章を書いてくれというお達しを受けてこの文章を書いているわけでありますが、一体何を書けば良いのでしょうか。思わず疑問を投げかけてしまいました。きっとこの疑問を受けて取った方は、この文章を読んでいらっしゃることでしょう。教えてください、なぜ今このブログを読んでいるのですか。目的は、一体何ですか。私のことを知りたいと思っているのですか。

まあ、いるかも分からない方に、質問し続けることほど、ギャンブルなものもなかなか無いと思います。だって、親からもらった大切なこの世に一つしかない大切な野球ボールを壁があるかもわからない虚空に投げて、壁当てしようとなんか思いません、少なくとも私は。怖いですから、失うことが。壁がなければ、ボールは、虚空に吸い込まれます。虚空に消えたボールは、どうなったのでしょうか。在るのか、無いのか。分かりません。少しネガティヴ過ぎましたかね。ボールが絶対に跳ね返ってこないということは、無いと思っています。だから、ギャンブルなんです。ただ、今書いている文章が、私に跳ね返ってくることは、あるのでしょうか。私は、文章というものを外に出しました。内から出した文章の分、空いた私の内に外から入ってくるものは、あるでしょうか。換言すれば、私の作用に、反作用が伴うのか。ということが言いたいのです。


ずっと気になっています。あなたは誰ですか。私にどのような作用をしたいのですか。読んでいる人がいるならばの話ですが。


「自己紹介」というものは、自分を知ってもらうために行う行為であると解釈しています。また同時に、相互にコミュニケーションを取るために必要なものであるとも解釈しています。道端で、知らない人に、自己紹介したり、されたりすることありますか。それは、自分自身も、その知らない人もお互いに相手のことを知る必要がないために、起こりづらい現象であると思います。興味津々で道ですれ違う人と接触を試みようとする人は、少ないのではいないでしょうか。これは、私がそのような行為を行わない人であるためそう考えており、多少偏った考えであると思います。しかし、この考えを用いて話していきます。そんなどこの誰かもわからない人と特殊な状況を除いて、接触を取ることがないのであれば、私とその方との間に「自己紹介」は発生しないと考えられます。特殊な状況とは。それは、会社や学校などの組織に属している時であります。相手がどのような人分からなければ、円滑にことは、運ばないどころか、コミュニケーションに齟齬が生まれ、大惨事となることもあります。片側が自己を紹介して、相手に理解されたとしても、相手が自己を紹介せず、相手の相手が相手を理解できなかった場合、それは意味がない上に、相手の相手の徒労となります。「自己紹介」の成立条件として自己紹介する自分自身に対する自己紹介を受ける相手の存在と相手の自己紹介の存在つまり、相互的な情報の提示が必要であると思います。


さて、ブログに話を戻しましょう。ブログには、匿名の不特定多数がアクセスします。そこで私が、自分は”このような存在である”ということを高らかに宣言したとしましょう。まあ、いるかも分かりませんが、それをみた人が、この人はそのような人であるのだなという解釈をしたとしましょう。コミュニケーションには、齟齬が付きまといます。”こう”言いたかったのに相手には、”そう”伝わってしまう可能性があります。私に文才があるという自負は、ありません。必ず私の文章を見た場合に、私と読み手の認識に齟齬が生まれると思います。これは、卑下していっている訳ではなく、コミュニケーションの仙人でない限りは、齟齬が発生するという私の認識が私の考えの根となっています。
そう、そうなればここで私が私を提示しても、「自己を紹介」することが、不完全となり、相手の私の自己に対する認識の齟齬が解消する術は存在しないと思われます。あなたが、匿名の不特定多数である限りは。


誰ですか。あなたは誰なんですか。私は、あなたと話したい。ただ、あなたがいったい何であるかがわからなければ、対話ができない。あなたには、純粋に私のことが知りたいと誓うことが出来ますか。…難しい時代になったものですね。今や情報が矛にも盾にもなる存在です。私が知らない人にそう簡単に渡すわけにはいかないんです。あなたは誰ですか。誰ですか。対話する機会があれば、非常に喜ばしいと思います。きっとこの時点で齟齬が生まれていると思いますが、決してあなたのことが嫌いな訳ではなく、邪険な存在である訳ではありません。ただ、私の自己に関する情報をだすために必要な絶対条件である、相手を信頼するために、必要な各々の自己に関する情報開示の相互性が担保されない状態では、核心的なことをお伝えすることが出来ないといった状態です。対話したいということを言いましたが、これは今の私が具体的な相手を想定せずに発した軽くて軽いさらに、軽くて軽すぎる発言です。これです。これがあるから、この状態の「自己紹介」は、困難を極めるのでしょう。
「自己を紹介」することに対して書いてきましたが、角度を変えて考えたことを書いていきます。


「自分」って一体なんでしょう。今私は、非常に心を乱してこの文章を書いているようない気がします。この「心が乱れている私」は、私を象徴するに値するのでしょうか。この文章だけ見た人は、こいつは”このような人”だ、と解釈するでしょう。”このような人”という解釈を私がその人からぶつけられたならば、狼狽するでしょう。そんな自覚なかったと言ったり、私ってそんな感じですかなんて聞き返してしまうかもしれないですね。でも、その解釈も私を構成する要素として私に存在していると思われるのです。「自分」というものは、内側に存在するものであるのか、それとも、外的影響が構成するものであるのか。おそらくどっちもでしょう。生きれば生きるほど、いい影響も悪い影響も受けることとなるでしょう。それが、絶えず自己を変形させて、自分でも自己が分からなくなってくる。最終的に、「あなたは誰ですか」と問われれば、私は、たじろぎ、沈黙してしまうでしょう。難しい問題です。「自分」とはないか。一生探しています。目撃したら、私を見つけ出して説法してください。また、軽い軽い発言をしましたね。笑えてきます。
色々書いてきましたが、私の雰囲気は、伝わりましたでしょうか。


「自分について」という題材であるにも関わらず、私についての具体的な情報が何もないという指摘を受けそうですが、そうですね、出したくないですね。あなたと私が対話する環境になり、お互いがお互いに影響を与えるその状況になるまで、具体的な情報を出すことはできません。自分なりに私の雰囲気を伝えようと努力したつもりです。
是非、劇場で対話しましょう。演劇は、役者と観客が影響を与え合い、対話する場であると思います。待っています。では、いつか、会えれば良いですね。

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