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安心できる額

20代の頃に、「どれぐらいのお金があれば安心できるか?」という話題になったことがありました。

その時わたしは、口には出さなかったけれど、自分の口座に20万円あれば安心だな、と思っていました。
だってお勤め仕事をしていたから毎月お給料が入ってきたし、辞めさえしなければそれがずっと続くと考えていたから。
若き頃のわたしはとんでもなく愚かで浅はかでお恥ずかしいかぎりですが、借金もなく口座に20万円あれば、自分ひとりならとりあえず安心できる、と思ったのです。

ところが、同じ質問に、「20億」と答えた人がいました。
え、20億?
当時のわたしにとって(今でもそうですが)、「20億」って途方もない額過ぎてやや引きながら、自分の20万を恥じました。
おそらく20億のその人は、毎日大きなお金を動かして働いていて、たくさんの人が関わる世界でしのぎを削っていて、背負っているものも描いている夢もとんでもなく大きくて、だから「安心できる額」も超高額になる、ということだったのでしょう。

でも思ったんです。
「20億ないと安心できない人と、20万で安心できる人なら、後者の方が断然お得なんじゃない?」と。
「安心」を得るって大変なことです。
たった20万で安心してしまう人間もどうかと思うけれど、たった20万が手元にあるだけで本当に「安心」できるのなら、1万倍安上りでお得。
いかに楽天的でボンクラで見通しが甘かろうとも、少ない金額で安心できる子供のようなその心持がすでに幸せな気がしたのです。
ということは、20万で安心できるほうが1万倍くらい手っ取り早く幸せってこと?
違うかぁ。

今ではさすがに20万で安心できるほど単純ではなくなってしまったわたしですが、それでも20億よりはずっとお安く安心できます。
今は……今は……いくらあれば安心かなぁ。

そこで試しに夫に、「突然ですが、お金はいくらあれば安心?」と尋ねてみました。
すると、めんどくさそうに彼は言いました。

「いくらあっても同じだよ。
どれだけあったところで不安だし、無くても不安で、結局一緒なんだよ」

おおおおお。
なんだか村上春樹の小説に、似たようなものがあったような。
そこで気になって探したら、ありました。

もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いのもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる。金持ちもいりゃ、貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持っているやつはいつか失くすんじゃないかとビクついてるし、何も持っていないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配してる。みんな同じさ。

村上春樹『風の歌を聴け』より

友人と会話する主人公のセリフの中に出てくる言葉です。
夫は、村上春樹作品を1冊も読んだことがないのだけれど。

小説ではこのセリフの後、こう続きます。

だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力すべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ? 強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。

村上春樹『風の歌を聴け』より

というわけで、わたくし、強くなろうって努力したいと思います。

店のささやかな収支をため息交じりに眺めつつ、「結局たぶんみんな同じ」と言い聞かせて、自分を慰め励ます確定申告の季節です。


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