見出し画像

一人読書会「新記号論」vol.1~

はじめに

このnoteはマーケティングに関わる私がその視座で「新記号論: 脳とメディアが出会うとき(石田英敬・東浩紀著、ゲンロン叢書)」を読み、マーケティングに関係が深いと思われる部分をピックアップして想像を膨らませる一人読書会である。
なお、哲学について理解が甘い部分が多く、それも学びながらのメモになるので間違った理解があれば、その次の記事で訂正などをしていきたいと思う。

第1講義「記号論と脳科学」

最初にこの本は第1講義から第3講義、そして石田氏の補論に分かれており、第1講義は「記号論と脳科学」をタイトルに、2018年時点での記号論の状況と経緯、そして脳科学の発達が記号論にブレイクスルーをもたらすであろうことを説明している。
状況説明な内容が多いため、直接的にマーケティングに関係するわけではないが、いくつか気になった部分をピックアップしていこうと思う。

記号学はオワコン?

最初に話は外れるが、私は某横浜の大学を1998年に卒業している。総合芸術課程というところで現代芸術学を学びたかったから入ったのだが、当初は具体的には何をするところなのかわからなかったのも事実だ。
幸いにも1995年ぐらいから日本に「インターネット」が入ってきて学生時代から関わることができたし、「広告」ともネットと掛け合わせて関わることができたのは幸運だったとしか言いようがない。

大学2年生からは広告会社のバイト(つまりインターン)として働いていたが、誰もネット広告を制作することができなかったため多忙になってしまい勉強への取り組みは不十分だった。もう少し勉強しておきたかった気持ちはあるが、HTMLを書いているのは幸せだったのでそれはそれで勉強だったと思う。

そんな昔話をしてしまい恐縮だが、そんな中でも興味を持ったのが記号論であり、メディア論だ。ソシュール、パースなどの20世紀初頭の哲学者やマクルーハン、そしてネグロポンテという流れは今の考え方の素地だと思う。
記号論といえば、ソシュールによる「意味されるもの」と「そのものを意味している言葉」には違いがあるという「シニフィエ/シニフィアン」の考え方だ。当時、アートの源泉の1つを知ったような強いインパクトを与えた。
しかし、その後、勉強してなかったので記号論の行方については知らないままだったというところで、2018年にこの本を読むことになったというのがいきさつである。

ここからが本題だが、当然だが記号論はデジタルとは関連していなかった。メディア論に関しても、活字による社会から映像の社会、つまり映画による社会構造を論じることが中心だった。
ただ、一般社会にはデジタル社会の萌芽が見て取れるのに、学問として論じられているのはあくまでヌーベルバーグだったりと「今」を考えるような状況ではなく、そこから記号論も過去の学問として考えていた。
つまり未来を感じていなかったし、学問・哲学とはオワコンを論理的に振り返ることなのかと思うほどだった。
90年代の例を出すなら、本来、映画「マトリックス」もしくはアニメ「攻殻機動隊」などこそ学問的に論じられるべきだったと思う。

未来志向の学問としての記号論

第1講義でも同様に「記号論」は20世紀に渡り、文字メディアに代わって映像メディアが主役になる(いわゆるグーテンベルグ銀河系の終焉)ことで「現代記号論」に更新されて以来、更新は停止しているが、社会自体はデジタルによってアップデートされてしまったことでギャップが生じてしまっていることを説明している。
一方、ソシュールは「現代記号論」を始めるにあたって言い残している「この学問はまだは存在していないが、存在する権利を持ってる」という言葉を、この本の中で石田氏が繰り返し引用しているが、実はこの学問自体に未来志向を持っているというのが興味深いポイントだ。
つまり、現代記号論が映像テクノロジーによって更新されたように、常にテクノロジーによる変数を組み込みながら更新される必要がある学問なんだということだ。
これは先ほどの「学問・哲学」に対して私が持っていた捉え方と大きく異なる点であり、まずは自分自身を更新する必要があると感じさせた。

そして「哲学とは考えること」に関することだが、この20年間で恐ろしく速い速度で考える中枢である脳に関する研究、脳科学が劇的に進行しているようだ。
そして「記号論」として、様々なテクノロジーの中でも特にこの脳科学からのフィードバックを引き受けなければならないというのが「新記号論」の主張だ。

脳科学の進化

これは第1講義だけの話ではないが、この本には脳科学周りの用語が多い。その中でも「ニューロン」に関するトピックはインパクトがあり、その中の1つ「ニューロンリサイクル」は、人間が元々持っていた自然を見分ける脳のシステムは、現代社会においては文字を見分けるシステムとして再利用されているという仮説で、私は強い興味を持った。

まだ英文のwikiでしか掲載されてない、またかなり専門用語の多い英文のためgoogle翻訳でしか理解できないが、石田氏によれば「人の脳は自然の中にあるモノの輪郭、特に交点を認識する能力があり、それが文字を認識する能力として代用(リサイクル)されている」ということだ。
これは想像だが、人間は文字を読めるようになったことで自然を見る力をある程度失ってしまった可能性もあり、それはどんな世界だったんだろうと想像してしまう。(文字がないゆえにそれを説明できないというパラドクスがあるが)

その能力は文字の成立とも関連しており、世界中の文字の中にある複数の線の交点(”L”、"T"、"+"、"*"など、36タイプある)の登場頻度の分布を分析した結果、アルファベット、漢字に関わらず、様々な文字で同じ傾向が見られる。そして自然を写した写真(例えばナショナルジオグラフィックの画像など)の輪郭の交点を分析しても、同じような頻度で分布する。ということで証明されるそうだ。

脳が自然を見るチカラ、マーケティングへのジャンプ

ここから私が感じたのは、人は文字や画像を見る時、線の交点を感じているという想像以上のプリミティブなところから出発しているということであり、それが人にとって感情を生む原点であるということは、マーケティングにも関係するだろうということだ。
つまり、優れたデザイナーによるモノとモノとのレイアウトが生み出す美しい交点の頻度は言葉にならない快感を生み出すだろうし、優れた広告コピー、文字レイアウトは文章、そして文字の意味を超越して、文字の中にある線の交点によって感情を引き出すことがあると言ってもいいかもしれない。
そうなると例えば、書体の選択が感情を引き出すことが脳科学的にも証明される可能性がある。
よく私は広告コピーに対して「もはや人は文章を読む時間はない、単語とそ組み合わせを追っているのだ。だからこそ単語が持つ記号性まで遡ることが重要だ」と感じているが、人間の認識を極限までプリミティブに捉えるとそこまで遡れるというのは驚愕だ。
また人のインサイトに影響を与えるには、その観点で遡るべきという持論のバックアップにもなりそうだと感じた。

アップデートされ続けるべき未来志向としての学問「新記号論」を考えることは、アップデートされるマーケティングを考えることでもあり、今後もこのように、少しづつ自分の領域と関連付けながら読み進めていきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?