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一人読書会「新記号論」vol.3

転職のごたごたで間が開いてしまったので再開。
疎遠だった以前の後輩から「この記事を読んでます」的なメッセージが来たので再びやる気を取り戻したが、やる気なんてそんなものかもしれない。
そもそもこの記事はあくまで自分のために書いているので共感が少ないのが前提なのだが、つい料理などの他の私の投稿へのレスポンスと比べてしまうのは、もはや「自分」とは共感によって評価されることが前提になっており、ネットに毒されているのかもしれないと感じた。

前意識というプロセス

さて、「新記号論」第2講義の章は、フロイトの話である。
フロイトといえば夢判断であり、肛門期や男根期の心理性的発達理論が注目されがちの精神科医ではあるが、実は神経学者としての一面も重要で、この章ではフロイトの功績の1つである無意識への考察を神経学者としてのバックグラウンドを基に丁寧に説明している。

私も含めて、無意識は意識の反意語のように感じてしまうが、実は無意識は意識のためのプロセスの1つであるという。
視覚・聴覚のような知覚神経が刺激を受けた後、神経ニューロンへエネルギー流入が繰り返されることで脳内に痕跡を残し(想起痕跡:書けないペンを何回もなぞって線にするようなもの?)、それがやがて無意識を作り、そして前意識という検閲過程を経て、注意(志向性とも言う)を向けられたものが意識となるという流れだ。
前意識の考え方は、現在ドゥアンヌという21世紀を生きる神経学者の本を読んでいるが彼の意識の研究においても当然のプロセスとして肯定されており、マーケティングとしての記号を考えるにあたっても、今まで無意識しか考えていなかったが、今後は、
無意識→前意識(検閲)→(注意)→意識
は忘れるべきではない前提知識だと言える。
なお、この知識のない「脳科学で考えるマーケティング」が存在したら、まず疑問視するべきだろうと思う。

広告のグラフィック・映像とメッセージはどちらが大切なのか?

この前意識に関する知識は私の疑問を解き明かしてくれた。
ラカンは「無意識は1つの言語として構造化されている」であるとしており、シニフィエ・シニフィアンの概念においてもラカン的には、意味であるシニフィエが小文字の[s]、記号・言語であるシニフィアンは大文字の[S]として、こちらが優位であると説明しているらしいのだが、意識・無意識にかかわらず言語が優位的存在である考え方のほうが私にはしっくりくる。(デジタル空間におけるハイパーテキストという概念を重要視している私から見ると都合が良いからだが)
しかし、フロイトは「無意識は物表像(シニフィエのフロイト的表現)のプロセス」だとしていて、映像や音声の連合が無意識を形作っているという。そして、「前意識以降が語表象(シニフィアンのフロイト的表現)のプロセス」であると説明している。
これを無理に広告に当てはめて「広告においてメッセージとグラフィックや映像はどちらが興味のない人に訴えかけるのか?」という問題を考えてみると、グラフィックや映像こそが無意識プロセスに働きかけることができる。しかし、前意識プロセスにおける言語化(メッセージ)という合理化の検閲を通られなければ、人は意識に乗せられることができない。というのが私の理解だ。この説明であれば、どちらも必要であることが分かるだろう。

つまり、グラフィックや映像は、言葉による説明がないとそれがなぜ良いのか?を意識で理解することができず、無意識の海の中で漂うしかなくなる。映画ならそれでもいいだろう。長時間、そして集中力の高い視聴体験の中で、見る人は記憶の中からゆっくりと表現のための自分の言葉を探すことで、無意識の感覚を意識に引き上げることができるだろう。それゆえ、感動も深いし、人それぞれの感想が生まれる。
広告はそれではその目的を達成することができない。
極めて短期間に、そして注意力の散漫な状況においても理解してもらうことが必要、そして人それぞれの感想は非効率な存在になってしまうため、グラフィックと映像、そして意識を導くメッセージとの絶妙なコンビネーションが必要なのだ。

おえかきせんせいについて

実はこの章にはもう1点、「超自我と集団脳」についての重要な言及があるのだが、数回読んでもまだ解釈しきれてないので、次回へのチャレンジとしておきたいのだが、もう少し軽い内容でこの章での興味を持った点をピックアップしておきたい。
もちろんこの本を読むまで知らなかったのだが、フロイトは実はまだ存在していないipadのような機械を前提とした意識の構造を考えており、それが無意識への説明につながったとしている。つまりフロイトはスマートデバイスを概念として発明していたのだ。
しかし、当然そのような機械はないため「不思議なメモ帳」と言われる白いパラフィン紙が強い圧力で黒い蝋版にくっつく性質を利用したおもちゃの仕組みで無意識を説明しようとしていた。
確かにこの「不思議なメモ帳」の比喩はある程度分かりやすいのだが、我々日本人にはもっと身近なおもちゃがある。それは「おえかきせんせい」だ。

2020年でもまだ販売しているのが驚きなのと、アプリと連携(スマホで撮影後、色付けできてアニメーションもできる!)していることがさらに驚きなのだが、ほとんどの日本人が知っているようにペン先やスタンプについた磁石が白い液体らしい何かの中に沈んでいる黒い砂鉄を浮かびあがらせて文字や絵として残すことができるのが「おえかきせんせい」の仕組みだ。

ここで無意識についてのフロイトの説明を「おえかきせんせい」の仕組みで端折って説明すると、視覚など外部からの刺激(磁力)が無意識(沈んだ砂鉄)に作用し、浮かびあがらせた像が意識であるということだ。
もちろんこれは端折ってるため、冒頭に書いた前意識などのプロセスは飛ばして説明しているのだが、このような仕組みに例えられて説明されるのはわかりやすいと感じる。

このような解釈は私の意識への理解が、単に論理からもう少し体験を交えた理解へと格上げすることができたし、このおもちゃで遊んだことのある人の間で感覚を共通化できるのも興味深い。

なお、この本でも「不思議なメモ帳」の話はまず知っておくべきトピックとして取り上げられているのだが、私の考えるマーケティングにおける記号化の仕組み理解に当たっても、補助線として忘れるべきではないので読書録として残した次第である。

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