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東西アジアの「フロンティア」を開拓した一族の200年

(ヘッダー写真は、トルコ中部にあるヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ」の遺跡)

人類で初めて鉄を製造する技術を獲得したのは、紀元前1200年から1400年ごろに現在のトルコ、アナトリア半島に繁栄したヒッタイト帝国だといわれる。

その定説が、日本の考古学調査の成果で書き換えられる可能性が浮上している。アナトリア中部カマン・カレホユックで長年、発掘を続ける「アナトリア考古学研究所」が分銅型の鉄塊を同地で発見した。3月25日付の朝日新聞朝刊によると、鉄塊は直径約3センチで、紀元前2250年〜2500年の地層から見つかった。鉄を分析したところ、宇宙からの鉄隕石ではないことが分かり、「人間が火を使って鉄鉱石から作り出したものと確認された」という。また鉄は地元産ではないことも分かり、同研究所では「他の地域から持ち込まれた可能性がある」とみている。

これが意味することは何か。ヒッタイト帝国が興るはるか以前に、何者かがこの地域に製鉄技術を伝えた可能性が考えられる、ということだ。同研究所の大村幸弘所長は朝日新聞に、鉄塊が出土した場所の状況をふまえると、「古代都市が大規模に破壊され、焼け跡の上に北方から来た異文化集団が移り住んだことを示す」と語り、この異文化集団移住の際に「初期の製鉄技術が同時にもたらされた」可能性を指摘している。

研究は今後も続けられるというが、朝日新聞記事にある考古学者・小泉龍人氏のコメントにあるように「『世界史の常識』に修正を提起した、インパクトの大きな極めて重要な発見」といえるだろう。

製鉄の起源に関わる興味深い研究を続けるアナトリア考古学研究所を率いるのが、大村幸弘所長だ。岩手県盛岡市出身。

偶然か必然か分からないが、盛岡市を含む岩手県は南部鉄器という伝統工芸で知られている。また、岩手県釜石市には、日本最古の洋式高炉と言われる「橋野高炉」(1858年操業開始)跡が残り、2015年には世界遺産に登録された。釜石にはその後、明治期に日本最古の製鉄所とされる「釜石製鉄所」が作られる。

大村幸弘氏が産経新聞のインタビューに語っているが、大村氏の父、大村次信さんは、南部鉄器の収集家で、幸弘さん(家族との混同を避けるため、以降、こう表記する)自身も、「鉄製品の奥深さにも取りつかれた」。

幸弘さんの著書「アナトリア発掘記」(NHKブックス)によると、父次信さんの鉄器好きは相当なもので、何百個も集めていた鉄瓶を「朝まだ薄暗いうちに起き出し、部屋中に並べてせっせと磨いていた」という。「父は学者ではないが、考古学や民俗学に強い関心を寄せていた」といい、家には「民具、骨董の類がずいぶんたくさんあった」ことから、幸弘さん自身も「もの心ついたときには、すでに考古学的世界に親しみを持つようになっていた」と述懐している。

そんな、大村家に受け継がれた、「古きものへの関心」が、一時は、歴史のはざまに埋もれようとしていた日本の海外交渉史の一断片に再び光を当てることになるのは、ある意味必然という気もしてくる。

幸弘さんの父、大村次信さんが、世に出るきっかけを作った「一族門外不出の書」、『私残記』のことだ。

『私残記』は、南部藩砲術士の大村治五平(1751〜1813)が、蝦夷地(北海道)警備に派遣された択捉島での体験をつづった家族への「遺書」のようなものだ。治五平は、大村次信、幸弘父子の祖先。

ロシア人が択捉島の日本側番所を襲撃した「エトロフ事件」(1807年)に遭遇し、ロシアの捕虜となるが釈放されて帰国。しかし、幕府は、一度戦死情報が流れた治五平に事件の責任を押し付ける形となり、帰藩後、蟄居を命ぜられ、現在の岩手県宮古市の寺に幽閉された。捕虜になったのは56歳、それから6年後に62歳で死去。生前、治五平が書き残した『私残記』は、一族の「門外不出の書」として保存されてきたが、次信さんが、義兄で、直木賞受賞作家の森荘已池(1907〜99)に存在を明かしたことで、書物として世に出ることになった。

北方警備のため、アジアの東の端の択捉島に渡り、最後は非業の死を遂げた治五平。それから200年が経過し、その子孫の大村幸弘さんが、性質は異なるものの、アジアの反対側の端で、世界史の解明のため、遺跡発掘と格闘している。

「一族の血脈」というものを過度に強調するのもどうかとは思うのだが、親から子へと、脈々と伝えられるある種の「フロンティア精神」のようなものを感じずにはいられない。

大村家は、その「フロンティア精神」を抱いた多くの人をはぐくんできた。このストーリーには、まだまだ続きがある。

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