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カーゼム・サーヘルという伝説的イラク人歌手

 カーゼム・アッサーヘルという歌手がいる。イラク生まれの61歳。今もアラブ音楽界のスーパースターとして君臨する。

 音域の極めて広い天賦の美声を持つこの男を、アラブ世界の音楽ビジネス界は、シンセサイザーを使った「ポップ・ロック」歌手に仕立てようとした。だが、「私が、(アラブ)古典音楽とオーケストラのエッセンスを融合させることで、ポップス界をリードしたいと考えていることを理解していない」と喝破するカーゼムは、アラブの大衆ポップスの要素も取り入れながらも、本質的には、アラブの伝統歌謡の歌い手としての立場をかたくなに守ってきた。「今、アラブで多くの”お子さま”たちが作っているテクノ(音楽)」は好まない、とも直言する。

 カーゼムの名を一躍、アラブ世界全体へと広めたのは、名曲「アナ・ワ・ライラ」(私とライラ=1998年)だろう。ライラ(アラブ女性の名)に振られた男性の鬱々とした心の内を歌った曲だ。この曲は、英BBC放送が行った世界のヒット曲人気投票で、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」を上回る第6位にも入っているほどだ。

 さらに、英国の有名オペラ歌手、サラ・ブライトマンとのデュエット曲「The War Is Over Now」は、カーゼムの世界的知名度を押しあげるのに大きく貢献した。イラク戦争前夜の2003年2月の米国ツアーも成功をおさめ、世界的にみても、押しも押されもせぬアラブのトップスターの地位を確立したといえるだろう。

 カーゼムは、その風貌の「イケメン」ぶりも、人気の理由であることは間違いない。だが、意外と、「イケてない男」を演じる歌も多い。その代表格がすでに述べた「アナ・ワ・ライラ」だろう。一方的片思いの女性に、あっけなく振られた男の独白。

私の熱烈な祈りは、あなたの目の中のミフラーブ(祭壇)で死んだ
旗は、絶望の風に降伏した
私の時間は、あなたの閉じられた門の前で干からびた
懇願は何も実らせなかった

 といった具合。日本語にしてしまうとなんだが、アラビア語ならかなり詩的な表現のようだ。それにしても、どよーんと暗い絶望の歌だ。こういう歌詞が大ヒットを飛ばす、というところが、今ひとつ理解できない気もするが。 

  また、カーゼムを語る上で欠かせないのは、正則アラビア語(フォスハー)による曲が多いという点だ。アラブ音楽界では、アラブ世界各地で差異のある口語方言で歌うのが一般的だ。カーゼムがフォスハーで歌う理由は、本人の口からはっきり示されたことはない。カーゼムに近いあるエジプト人記者は、「カーゼムは、アラブ全てが祖国と考えている」と、その理由を説明する。アラブ世界全体にアピールするためには、フォスハーでうたう方がいい、という考えなのだろうか。

 2004年にリリースされたカーゼムのアルバム「Ila Tilmitha」は、カーゼムの「伝統主義」がより鮮明になったアルバムと言える。
カーゼムこそ、ウンム・クルスーム、アブデルハリーム・ハーフェズといった伝統的アラブ歌謡というアラブ文化の「珠玉」を継承する歌い手であることは間違いない。

 「Ila Tilmitha」をめぐっては、「ポップス」志向が顕著なアルバムの売り込み戦略への不満などから、カーゼムが所属するレーベル「ロターナ」から離脱するという「事件」もあったという。

 実際、アルバムを聞いていると、「アシュコ・アイヤーマー」「サイエダト・オムリ」あたりは、ウードなどアラブ伝統楽器も交えたオーケストラによる前奏といい、曲調といい、現代アラブ・ポップスを聞き慣れている人ならば、エジプト伝説の歌姫「ウンム・クルスーム」を聞くときと同様の「古くささ」を感じるかも知れない。さらに、「ダーカト・アライヤ」のような曲に至っては、日本でいえば民謡といっていい、伝統朗唱「マッワール」のカテゴリーである。

「アラブ・アメリカン・ニューズ」誌(2002年)は、カーゼムが成し遂げたものは、「ムハンマド・アブデルワッハーブ(クルスームにも曲を提供したエジプトの歌手、作曲家)とともに死に絶えたマカーム(maqam=アラブ伝統の旋律体系)を再興したこと」だとの音楽家の声を紹介している。

 また、カーゼム自身も、同誌の中で「私は、フルオーケストラ(編成)による古典的な音に戻りたいと思っている」と語っている。こうして考えると、「Ila Tilmitha」は、カーゼムが、西洋ポップス音楽を取り込みながら急速に変貌をとげるアラブ・ポピュラー音楽に、たたきつけた挑戦状であるとのとらえ方もできるかも知れない。だが、このカーゼムの路線が、アラブ世界の若い世代にまで受け入れられたかは、評価の分かれるところだろう。

 カーゼム・サーヘルは、1957年、イラク北部モスルで生まれた。父は家具職人。本人によれば、父はイスラム教スン二派、母はイスラム教シーア派だという。12歳の時、自らの自転車を売って、ギターを買う。その年、初めて曲を作る。その後、バグダッド音楽院に進学。そこでは、アラブの伝統楽器ウードを習う。2004年に来日したイラクを代表するウード(アラブ弦楽器)奏者、ナシール・シャンマは、バグダッド音楽院でクラスメートだった。
「1970年代の自由なイラクで育つことができて、幸せだった」。カーゼムはそう回想する。イラクで70年代という時代は、原油価格の高騰などによる好況にも支えられ、文化人たちもその活動を最も謳歌した時代といわれる。国民の抑圧と対外侵略を繰り返したサダム・フセイン政権が登場するのは、1979年、イラクの戦争の時代が始まる「イラン・イラク戦争」のぼっ発は、1980年のことだ。

 1980〜88年のイラン・イラク戦争から、1991年の湾岸戦争までは、イラクが戦争に明け暮れた時期。カーゼムも、イラ・イラ戦争で徴兵されたとも言われる。いずれにせよ、カーゼムも、イラク国内で苦難の時代を過ごしたことは想像に難くない。米紙「サンフランシスコ・クロニクル」によると、イラン・イラク戦争休戦直後、カーゼムは、「蛇のかみ傷」という曲で、戦争で生命をおびやかされ、期待を裏切られた一人のイラク人について歌った。カーゼムは密かにこの曲のビデオを製作し、それをテレビ放映させようとしたが、政府はこれを発禁処分にした。皮肉なことに、この処分が、カーゼムの名を国外にまでとどろかせることになったという。

 カーゼムとフセイン政権の関係については、さまざまな見方がある。アラブ世界では、「カーゼムとフセイン政権の蜜月」がたびたび非難の対象になってきた。1998年には、ヨルダンで反フセイン派に暗殺されかけた、との説もある。時は下って、イラク戦争直前の2003年2月に、米国ツアーを実施したことについて、「フセイン政権の諜報員」という言われ方をされたこともある。

 カーゼムは、1997年、フセイン大統領の長男ウダイ氏の快気祝いに出席した後、両親や兄弟をイラクに残したまま出国、以来、イラクの土を踏んでいない。ウダイに殺されそうになったため、との説もあるが定かではない。いずれにせよ、その2年前の1995年、アラブ世界へのメジャーデビューを果たしていたカーゼムは、アラブ芸能界の中心地・カイロに乗り込み、アラブ音楽界のトップスターへの道をまい進することになるのだ。


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