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日本で、シリアやレバノンの映画が上映されることの意味

中東の映画大国というと、まず第一にエジプトの名前があがるのは当然だろう。アラビア語が話されるいわゆる「アラブ圏」の国々に、娯楽作品を中心に広く作品を供給し、首都カイロは「アラブのハリウッド」とも呼ばれてきた。さらにエジプト自身が、アラブ圏で最多の人口を誇り、国内市場も大きい。アラブの国に行って映画好きの人と話をすると、アラブの喜劇王、アーデル・イマームやら、ムハンマド・ヒネイディの話になる。

日本では過去、カンヌ映画祭の常連だったユーセフ・シャヒーン監督の作品が多く上映されてきた。シャヒーン氏はエジプト人。1998年に日本でも上映された、12世紀、現在のスペインに栄えたイスラム王朝「ムワッヒド朝」が行った「焚書」をテーマにした「炎のアンダルシア」が強い印象に残る。

日本で、どこの国の外国映画が上映されるかは、世界で現実に起きていることと少なからず関連していることは間違いない。とりわけ、欧米以外の国の映画に関しては。米国などがフセイン政権のイラクを攻撃した「イラク戦争」(2003年)の翌年の2004年から2008年まで、国際交流基金が「アラブ映画祭」を開催し、アラブ映画が一挙上映されたのはその好例だ。イラク戦争がなければ、特定の地域に焦点をあてた、大規模な映画祭が開かれることはなかっただろう。

とすると、最近、シリアやレバノンの映画が日本で相次いで公開されているのも、不思議ではないのだろう。シリアでは2011年から、悲惨な内戦が続いており、日本だけでなく、世界じゅうの関心を集めている。

公共機関の国際交流基金のような予算や人員はない中で、シリアの状況に関心を寄せた配給会社や個人が、日本での上映を多く企画した。「不思議ではない」とは言ったものの、こうした気概ある映画関係者の努力のあってこそのシリア映画上映であることは言うまでもない。改めて敬意を表したい。ここですべてを紹介することはできないが、この数年間、実に多くのシリア映画が上映されている。

正直言って、シリア内戦前には、シリアの映画が日本で上映されるのはまれだった。シリアはハーフェズ・アサド、バッシャール・アサド父子による強権政権時代が長く、思想統制も厳しかったこともあり、国内では自由な映画製作がむずかしく、日本を含めた欧米に紹介される機会があまりなかった、という事情もある。

それでも、2005年の「アラブ映画祭」では、「ラジオのリクエスト」という作品が上映された。シリア人のアブドルラティフ・アブドルハミド氏の作品。アポロ11号が月に降り立った1969年のシリア地中海岸の都市ラタキア近郊の山村を舞台に、2人の若い男女の恋愛模様を中心にムラの人間模様が描かれる。映画の題名にもなっているように、作品では、毎週火曜日にシリア国営放送が放送するリスナーのリクエストを受け付けるラジオ番組が重要な小道具となっている。村人たちは、リクエストした歌に、恋人などへの気持ちを託す。ラジオを通じた奥ゆかしいコミュニケーション。シリアという人、風土の古風な清らかさが感じられ、エンターテインメント性を追求するエジプト作品とは違った雰囲気だった。

「ラジオのリクエスト」は、それから10数年後、2018年の「イスラーム映画祭」で再び上映されることになる。「ラジオのリクエスト」は、アサド政権下のもとで製作されたもので、政治性、風刺性は極力排除された作品だ。もちろん、だからと言って作品の価値が低いというわけではまったくない。

一方、内戦開始後は、シリア国内は映画を製作できるような状況にはもはやなく、「シリア映画」といっても、国外に逃れたシリア人や、外国人によつて撮影されたもので、内戦を題材に取ったドキュメンタリー映画が中心になった。すでに何作か例を挙げた。

今月7月20日に日本での公開が始まる「存在のない子供たち」は、シリアの隣のレバノンの監督が撮影した作品。レバノンも1975年から10数年にわたり凄惨な内戦を経験している国。今なお不安定な政情が続き、シリアから戦火を逃れてきた難民も多く暮らす。作品はフィクションではあるのだが、ドキュメンタリー映画にきわめて近い作品で、最近のシリアを題材にした作品群とも、テイスト的に通じるものがあるかも知れない。

レバノンの首都ベイルートの庶民街。貧しい家庭に暮らし、両親からネグレクトされている12歳の少年ゼインが、エチオピアから出稼ぎに来た女性ラヒルとともに懸命に生きていく。ドキュメンタリーに近いというのは、主要人物を演じた俳優が、俳優ではなく、実際にレバノンで苦境の中で暮らす一般人であることも理由だ。作中、少年ゼインはレバノン人だが、実はシリア難民。ラヒル役を演じたのは、エチオピアの隣国エリトリア出身で、実際にレバノンで働き、「不法滞在」とみなされていた女性だ。さらにラヒルの子供ヨナスは、レバノンで働くアフリカ系労働者が両親だという。彼らはみな、厳密には状況は同じではないが、レバノンで苦難の生活を送ってきた人たちだったのだ。

そうした「人生」を背負う人々を見出して、別のフィクション・ストーリーを演じさせてしまう、ナディーン・ラバキ監督の映画製作には驚嘆するほかない。

ゼインが転がり込むラヒルの家は、掘っ立て小屋が並ぶスラムのような一角。「中東のパリ」と呼ばれる華やかなベイルートを支えているのは、この映画に登場する低賃金で働いている人々であるという事実を突きつけられ、はっとさせられもする。

作品は、2018年のカンヌ国際映画祭のコンペティションで審査員賞を受賞。東京の「銀座シネスイッチ」や「新宿武蔵野館」、千葉の「キネマ旬報シアター」、横浜の「kino cinema 横浜みなとみらい」、名古屋の「伏見ミリオン座」などで7月20日から公開。ラバキ監督は公開を前に初来日し、トークイベントも開催された。

実際はシリア難民であるゼインは今、第三国定住が認められノルウェーで家族とともに暮らしているという。紛争、貧困、格差、難民、外国人労働者。少し見回せば、この世界を覆っているようでもある諸問題を改めてかみしめることができる映画だ。

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