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非業の死を遂げた南部藩士が書き残した、ロシア襲来事件の真実

岩手県宮古市の市街地から、西に約6キロの同市の花原市(けばらいち)地区に華厳院(けごんいん)という古い寺がある。創建は、鎌倉時代の豪族・閉伊頼基(へい・よりもと)と伝えられ、当初の宗派は天台宗だったが、1489年に曹洞宗に改宗したとされている。

本堂にかけられた、山号が書かれた額には、この地を治めた最後の南部藩主、南部利恭(としゆき)の次男、利淳(としあつ)の署名があった。


「華厳院」という名前は、平安時代末期、保元の乱で敗れ伊豆大島に流罪になった源為朝の菩提を弔うため、頼基が為朝の法号から取ったという言い伝えがある。頼基は源為朝の三男だという説もある。その辺の真偽はともかく、歴史と由緒のある寺である。

盛岡でレンタカーを借りて、途中の休憩もいれて2時間半ほどで着く。北上山地の谷間を蛇行して下る閉伊川の川幅が急に広がり、流れもおだやかになるあたりに花原市の集落はある。川と並走する国道106号線を左に折れ、JR山田線の踏切をわたり、集落に入ると、杉並木の参道の向こうに黒瓦の立派な屋根が見えた。華厳院の山門だった。

寺の参道横に住むという現檀家総代の男性が、参道入り口で草刈りをしていたので、話を聞いてみる。花原市は全37戸で、全戸が華厳院の檀家。ただ檀家は周囲の集落にもいて、総数は1000世帯ほどだという。小集落の寺だが、檀家の分布はかなりの広域にわたる。

この華厳院を訪ねた目的は、大村治五平(1751〜1813)という南部藩士の墓に参るためだった。治五平は、同藩の砲術師。南部藩が、隣の津軽藩とともに幕府からの命を受け、ロシアとの国境の警備要員を送り込むことになったため、その一員として、択捉島に派遣された。治五平は31歳で隠居、派遣はその25年後の56歳の時。かなりの高齢での前線派遣だったことになる。

当時の日本は、再三開国を求めてくるロシアと緊張関係にあった。1792年にロシアの使節ラクスマンが根室に来航。1804年にはレザノフが長崎に来航して開港を求めたが幕府は拒否。1806年にはレザノフの部下が樺太にある松前藩拠点を攻撃・略奪する事件も起きている。

そうした中、幕府は1804年に択捉島シャナに拠点(会所)を設置。治五平を含む南部藩・津軽藩の警備隊はこのシャナの拠点に1806年に着任する。その直後、シャナにロシア船2隻が入港。日本側との戦闘に発展する。後に「エトロフ事件」とか「文化露寇(ろこう)」と呼ばれる両国の衝突である。

船からの艦砲射撃などを受け日本側は苦戦。戦わずして逃走した者も多かったといわれる中で、治五平は偵察中にロシア人を見つけ刀を抜いて、戦いを挑んだが、ロシア側の捕虜になった。その後釈放され帰国。しかし、一度戦死の情報も流れた治五平は、幕府警備隊などから事件の責任を押し付けられる形となり、南部藩に蟄居を命じられる。盛岡にいる家族と離れて、現在の秋田県鹿角市大湯で蟄居することになり、さらに、この花原市の民家に移された。その4年後、華厳院で死去する。享年62歳。

墓は、本堂の北側にある墓地内に立つ。戒名は「孤隣軒徳隠宗入居士」。宮古市の郷土史研究家の伊吹喜市氏は、この戒名が、中国の論語にある「徳は孤ならず。必ず隣あり」をふまえたもの、との見方を示している。おそらく当時の華厳院住職が名付けたものだという。現在ある墓碑が建てられたのは1957年。以前は岩のかけらが置かれているだけだった。寺の参道が始まる地点には、「大村治五平翁終焉之地金田一京助 謹書」と書かれた石碑もある。これは1967年に建てられた。

治五平は、蟄居中に、「私残記」という手記を書き残した。択捉島での体験を家族にあてて書いたもので、大村家はこれを「一族門外不出の書」として守り続けてきた。

「私残記」が書かれて130年後。これを書き起こし、解説をつけた本が1943年に大和書店から刊行され、「門外不出の書」が世に出る。書名は「私残記—大村治五平によるエトロフ事件」で、著者は岩手県盛岡市出身の直木賞作家、森荘巳池(1907〜99)。治五平の子孫の大村次信氏が、義兄にあたる森に「私残記」の存在を明かしたことから、世に出ることになった。同書はその後、中公文庫に収録されたが、現在は絶版となっている。

大村治五平の「私残記」については、回を改めて書いてみたい。

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