喪失の上に立つ、ボードレール
いま、世の中から失われてしまった感情。
もう思い出すことの出来ないものについて考えている。
思い出すことが出来ないという事は、それを失ったという事にも気が付かないということなのだろう。だから自分は、悲しみを捨てて、今日を生きることが出来る。だから今日を生きることは、言い知れぬ罪悪感をずっと抱え続け、育てていくこととも言えるのかもしれない。見て見ぬふりはもうしたくない、と思った時に、ボードレールがこちらを見下ろしているのがみえた。
ところで「トリスタン和音」をご存知だろうか?
いわばハーモニーの"くびれ"のように聴こえる和音のことで、作曲家ワーグナーが楽劇『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲で使用したことから、そう呼ばれるようになった。
最初に出てくる印象的な二つのトリスタン和音を聴いてみよう。
(二か所、画面の色が変わるところで鳴っているのが「トリスタン和音」)
以上、お聴きの通りの「トリスタン和音」は、のちに古典音楽の調性を崩壊に導いたとされている。しかし、この役割の和音そのものはここではじめて音楽に登場したわけではない。
一番有名なのはベートーヴェンの第1番交響曲の二つの和音であろうか。
ワーグナーのような大きな身振りはここにはない。指揮棒が動いたその瞬間に突如出現する調性感不明の二つの和音、せっかくなので聴いてみよう。
このベートーヴェンの和音には名前がついていない。つまり、この和音では調性の崩壊が起きなかったというわけである。
ためしに「トリスタン和音」とこの二つをいれかえて聴いてみれば、これらが機能和声的にはほぼ同じであることがおわかりいただけるのではないだろうか。せっかく音源をつくったので、これも是非聴いてみていただきたい。
…いかがであろうか?
音源を作るまでは、ここまで完全に置き換え可能であるとは思っていなかったので、自分はとても驚いた。なぜベートーヴェンの和音をもって、調性の崩壊とならなかったのだろうか。
さて、ここからが話の本筋となるわけである。
ベートーヴェンがこの二つの和音を含む交響曲を書いたのは1800年のこと。
啓蒙主義政治の権化たる神聖ローマ皇帝、ヨーゼフ二世が死んだ1790年以降、管理社会からの解放を目指す思想が台頭し、ナポレオンのいわゆる"ブリュメール18日"のクーデターが起こったのが1799年。その流れの中で放たれたベートーヴェンの和音はまさしく未来への号令として響き、善良な市民は専制政治の抑圧から、そして音楽も調性の束縛から解放されたのだ!という展開にはならず、そのあとナポレオンの皇帝即位そして失脚からウィーン体制を経て、また管理社会に戻っていったことはご存じのとおりである。
しかし、大都市パリにおいて「トリスタン和音」が最初に鳴り響いた1860年、それはベートーヴェンとはまったく異なる時代での出来事であった。
革命の時代はすでに終了し、都市の市民生活は解放を必要としなくなっていた。ナポレオン三世の皇帝即位と第二帝政が成立したのが1852年、ほどなくしてオスマン知事によるパリの都市大改造がはじまり、街は拡大され、放射状に大通りが敷かれた。もはやユーゴーやバルザックが描いたような熱狂、そして生活の悲惨や伝染病と隣り合わせであったパリの街は大幅に整理・浄化され、ほとんど姿を消してしまっていた。
かつて解放を望んでいたはずの市民は、大通りが張り巡らされて経済活動が盛んになった清潔な街をゆったりと歩きながら、かつての束縛・管理を懐かしく思うようになっていた。
かつて解放の号令として響くはずであったのと同じ和音が、革命後の豊かな社会においては人々の内面にやさしくとどまり、甘美に響くようになっていた。
この内面の甘美さを象徴するのが「トリスタン和音」なのであり、おそらくは音楽における「モデルニテ」のはじまりなのである。
「モデルニテ」とはなんであろう?
"近代性"と訳されることもあるが、"近代"という言葉の意味が曖昧になってしまった今では「モデルニテ」とそのまま書かれることの多くなったこの言葉 ≪modernité≫ について、ここではっきりと説明することは出来ない。
2024年現在、いまの"モデルニテ"は何だろうと考えて、例えばそれはインターネットに象徴された何かであるとしてみよう。インターネットは単なる通信手段なのか、記憶媒体なのか、知識なのか、判断材料なのか、発言なのか、行動なのか、社会なのか、私自身なのか…?いま目の前にあることが当然となっているものの正体を、自分は定義することが出来ない。インターネットはいつ発見されたのだろう?まだインターネットがないはずの1990年代、すでに情報ネットワークは存在し、自分がそのネットワークを駆使して便利に生活しているという意識があったことを覚えている。なんでも探せば見つかると思っていた。でも、いまここにあるインターネットが差し出してくるのは、あの時の自分が決して探しもしなかった情報であり、望みもしなかった行動であり、想像もしなかった私自身のような何かであるらしいのである。あのころの感覚を自分が思い出すなどというのは不可能なのだとすれば、私は自分の過去を書き換えてしまったのだろうか?
改造される前の古いパリに育ったボードレールは、『白鳥』と題したひとつの詩を書いた。その中で、青空に首を伸ばして水浴びをする白鳥に「水よ、おまえはいつ雨になって降るのだ?雷よ、いつ轟くのだ?」と言わせたあとで、
と書いて、取り返しのつかない喪失、清潔な街の社会が獲得と呼ぶところの喪失を、飛躍的な表現で描いた。
詩集『悪の花』が出版された3年後の1860年2月、ボードレールはパリに初めて鳴り響いた「トリスタン和音」をその場で聴いた。そしてすぐに、まだ見知らぬワーグナーに宛てて手紙を書き、その中でワーグナーの音楽が「自分の音楽」であるといい、「あなたは私を、本来の私へと呼び戻してくれた」と感謝の念を伝えた。それは、ボードレール自身が画家ギースと交流し、のちに「モデルニテ」の語を定義したと言われる評論『現代生活の画家』を執筆していたのと同じ時期のことであった。
ボードレールはいう。
漠然と読む限りでは自然としか感じられない。しかし、この時ボードレールがあえて「モデルニテ」という語をもって書いた文章は、確かに特別な響きをもって響いたらしいのである。その響きを、その感覚でもっていま聴くことは出来るのだろうか。
かつて未来に向けて放たれた和音は「トリスタン和音」となり、風通しの良い清潔な社会によってやさしく、そして甘美さをもって受け入れられた。
美しい生活、変わらない内面のメランコリー、見えることのない喪失。
いまを生きることは、ボードレールを読み、そこにある、しかし決して感じることの出来ない喪失に向けて手を伸ばすことではないか。
白鳥が青空に向かって、震えながら首を伸ばしているのがみえる。
失われた言葉を書き、失われた音楽を聴いた人がこちらを見下ろしている。
失われたものを、思い出すことは出来ない。
この清潔な街を、歩き続けるしかないのか、失われた言葉を読みにいく。
・・・・・
2024年1月28日(日) 19:00
「喪失の上に立つ、ボードレール」
https://www.cafe-montage.com/prg/240128.html
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