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ベルボトムジーンズを発明し、ジャニスの死んだ日も一緒にいたジャニスの”元恋人”

ジャニス・ジョプリンが亡くなったのが1970年10月4日。一般的には致死量を超えるヘロインを摂取したことによるオーバードーズということになっている。

ただオーバードーズではなく、単に転倒したことによる事故死だと思うと主張している人物もいるので紹介しておく。
ジャニスの ”恋人” と揶揄されたペギー・カゼルタ(Peggy Caserta)である。

この動画の冒頭でジャニスと歩きながら親しげに会話をしているのがペギーである。

ペギーがどのような人物かというと、まずはサンフランシスコのヘイトアシュベリーのブティック「Mnasidika(ナシデカ)」のオーナー。

ブティックといってもヒッピーやサイケデリックカルチャーの御用達なブティックで、パンクロックにおけるヴィヴィアン・ウエストウッドの「SEX」や「World's End」みたいなものである。

長髪が普通になって髪を切る人が居なくなってしまい、安く借りることができた元理髪店をブティックに改装。その理髪席に座るペギー。ヒッピーが増えたので若いCAがブティックを始められました。風が吹くと桶屋がみたいな話だ。

ブティックとしてデッドやジャニスなど固定客も付き、ヒッピーたちのたまり場としても繁盛したらしい。今この「Mnasidika」があった1510 Haight Stの建物は歴史遺産にも指定されている。
(店舗はまったく違うものになっている)

そしてブティックを経営していくうちに、彼女は女性たちが求めているジーンズの形を発見する。今でも定期的にリバイバルしている ”ベルボトム” ジーンズである。

さらにペギーは地元のジーンズメーカー、リーバイスに生産を委託し、ベルボトムジーンズをMnasidikaで独占販売する。
もうパンケーキが売れるようにベルボトムが売れていったそうだ。

1969年にMnasidikaとの独占契約が終了し、リーバイスはベルボトムを ”646” というロット番号で一般販売するようになる。
1970年代中盤のパンクの時代まではみんな履いてたベルボトムが、普通に買えるようになったのが1969年というのは意外である。

それ以前にベルボトムを履いてたベイエリアの連中はともかく、ジミヘンなどはわざわざMnasidikaまで行って買っていたのである。
ここら辺の話はリーバイスのサイトでも紹介されているので読んでみて欲しい。

ヘイトアシュベリーの有名人で、ビジネス面でも才覚を発揮していたペギーだが、ジャニスが亡くなる前夜も一緒の「Landmark Motor Hotel」というモーテルに泊まっていた。

ただ部屋は別だったそうである。ペギー自身はLGBTsな人だがジャニスはヘテロなので、 ”恋人” と揶揄されることはあっても、いわゆるセクシュアルな関係ではなかったらしい。

「Pearl」のレコーディングに現れないジャニスを心配したプロデューサーのポール・ロスチャイルドの使いが来て亡くなったジャニスを発見するのだが、この時ペギーもジャニスの遺体を確認している。
そしてジャンキーだったペギー自身の見解として、これはオーバードーズではない、転倒による事故死だと感じたそうである。

今となってはオーバードーズだろうが事故死だろうがもう関係なくて、このような歌い手がいたという美しい話でまとめたいところだ。

ただヘイトアシュベリーのコミュニティーの中心にいた人物が、あのリーバイス646に関わっていたことやジャニスの死の現場にいたということは、歴史的事実して忘れずに覚えておきたい。


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