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もしもボックス(note版)

これからはここでもどこでも、一人称を「私」と「わたし」で分けることにする。めんどうな訳があって…。





さあて、今回の~もしもボックス~は?
「もしも、子どもが生まれたら」

つけたい名前は今のところ
 灯(とも)
 時(とき)
 清(きよ)
 満(みちる)
 深笛(みてき)

性別問わないものがいい
本人の遊び心や気持ちにも委ねてみたいので平仮名もいい
私と妹が平仮名なことに影響されている…笑

12歳の頃は確か、男の子なら「涼(りょう)」で女の子なら「夏夜(かよ)」だった。けれどある日、知り合いに影響されてからというもの、これを考えるなら男でも女でも何でも似合いそうな名前を…と。まぁ言ってしまえばどんな風だって本人が不満じゃなければ変ってことにはならないんだけど。ただ、なるべく爽やかな気持ちでプレゼントしたい。どんな贈り物もそうだけど名前は一生ものだから特に。

そうは言っても所詮、エゴは混じる。混じるけれど完全な悪者ではないから、ちょうどいいさじ加減を見極れば苦しくない。私は、親としての希望を押しつけるようなものじゃない、いち個人としての好きを添えるつもり。





何人になるだろう、0人かもしれない。
そんな多くなくていい。
みんなでわいわいするのは楽しかったり勉強になったりするかもしれないけれど、私はやっぱり一人一人になるべく寂しい想いをさせたくない。気持ちを共有したい。

「お母さんに話せば大丈夫」と安心してもらいたい。
どうせ言ったってしょうがないと話す前から諦めていたり、何でもかんでも言わないと心配かけちゃうなんて緊張していたりしたら悲しい。そうでしょうか、母親になった私?

上の子には上の子の、下の子には下の子の呪いがかかる。親がどんなに気をかけても、ある程度はかかってしまうのかもしれない。私は家族のみならず親戚中でも一番年上の子どもだったから上の子の呪いしか知らず、痛いくらい知ってる。それは独りよがりの責任感、不条理な劣等感、中身のない使命感。

「独り」のような「一人」のような気がして落ち着かないまま、ひたすら突っ走らなきゃ。ぐらぐらする一本道を駆けて行かなきゃ。なぜここに立たされているのかわからない。そう立ち止まって振り返れば、私がどさくさに渡った一本道を、後ろで見ていた小さい子何人かが器用に渡る。それを眺めて安心する大人たち。後になって褒めてくれたとしても、恐怖は誰にも治せない、治させてあげない。それも抱いてまた走らなきゃならない、家族を抜けたって同じこと。こういうの何て言うか知ってる。





ママとパパはよくキスやハグをしていた。
大好きな小説に出てくる、主人公の両親もそうだった。
私もそうなるつもり。
欧風と和風の中くらい(笑)

結婚する人とは、深夜3時にお茶会がしたい。
 子どもがノソノソ起きて、ぐずったりなんかしたらオレンジジュースをかわいいコップに注いであげる。お母さんの好きな絵本、お父さんの好きな絵本、子どもちゃんの好きな絵本を読み合う。それから「あしたの朝、また会おうね」と言って寝かしつける。正式にお茶会のメンバーとして認めるのは思春期に入ってから、本人が希望すればいつでも受け付けます。


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