料理は愛情

別に気持ちを籠めろという話ではない。
結果的には籠めることにはなるがそれはどちらかというと気遣いだ。
籠めろべき愛情とは精神的な話ではない。相手を想像し観察し最適な選択をするという現実的な話である。寒ければ温かいものをだし、暑ければさっぱりしたものを、つかれていればがっつりしたものを、連日それが続いているようであればあっさりしたもの、陰鬱なときは酒でも用意するのもよいかもしれない。食事とは栄養補給である。それは体だけでなく、心のでもある。であるならば、そのときどきに応じて求められているものが異なる。そういった相手の状況を想像し斟酌し慮るのが愛情ある料理といえよう。また、そういった心遣い自体が相手の癒しになるともいえる。

そうやって相手をもてなせという話ではない。むしろ逆である。
つまり人をもてなす、愛情ある料理を提供するということはそういった細やかな心遣いに支えられているといってよい。そういった歓迎を受けるものはどういった心持ちをもつべきかという話である。
自分はそれだけ尊重されるのだと自負するべきなのか。あるいは礼をもって返礼をするのか。なにをもってそのような歓迎を受けるのかという意図を考えるのが一番の礼を示す答えなのかもしれない。
だが一番最初にするべきことはそこではない、相手の心遣いを理解することだ。心遣いとは実に繊細なものである。足りなければ気づかれないし、多すぎれば嫌みともなりかねない。重からず軽からず、相手の負担にならないぎりぎりを攻めるというのが最上のもてなしといえよう。そういった細やかな配慮に対する最上の礼はまず気づくことではないだろうか。ある意味高度な情報戦ともいえる。儀礼とは闘争なのだ。相手のその付随する意志をも飲み込みそれを味わう、そういった姿勢こそ大器であるとわたしはおもう。品格を高めるとはそういったあり方なのだろう。

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