下書き供養(2023年 夏)

結構な量の下書きが溜まっている。どれも内容として完結していないものばかりで、だからこそ下書きに埋もれさせていたのだが、未完成な状態でいっせいに放り出してみたら何か見えてくるものがあるかもしれない。


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近所のカルチャーセンターの講座一覧を眺めてたら吹き矢の教室があった。気になる。

近接戦闘で相手の得物が吹き矢だったら笑っちゃうな。

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なんかTwitter終わるらしい。と言っても、最近はほとんど情報収集のツールとしてしか使っていなかったので、Instagramや新聞や雑誌のデジタルアプリを使えば何ら不便はない。

影響が一番大きいとすると、主に音楽関係で参考にさせてもらっていた有識者の方々のツイートを観られなくなることだが、そのような人達は大抵Twitter以外のアウトプット手段を何かしら持っているので、そこは大丈夫そうだ。

いわゆる「廃人」たちは大騒ぎしているが、どうなのだろう。これまでにも何回かTwitter終了騒ぎはあって、移転先のSNSが検討され、けっきょく復活してみんな戻ってくるということを繰り返しているだけに、今回もしばらくしたら元に戻るのではという気もしている。

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仕事中とか、寝る前とかに最近よく聴いているのがMette Henrietteというノルウェーのサックス奏者が今年出した”Drifting”というアルバム。

Spotifyのおすすめで知った。

サックス、ピアノ、チェロのトリオで、ジャズというよりアンビエントとか現代音楽に近い(レーベルは安定のECM)。疲れたときや集中したいときによくはまる。聴くものに迷ったらとりあえず再生することも割とあるので、今年の再生回数でいえばかなり上位のような気がする。

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『おいしいごはんが食べられますように』の主題のひとつは、ポリティカル・コレクトネスや多様性を称揚する社会にあって静かに疎外される所謂マジョリティの葛藤だったわけだが、重度障害の当事者によって書かれた『ハンチバック』は、ナマを言うなこれこそが本当の疎外だ、と言わんばかりである。

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木曜日は頑張って仕事をしたので今日は予定通り有休を取り、品川で『ミッション:インポッシブル デッドレコニング PART ONE』を観てきた。

ここのところ、音楽でも映画でも小説でも、新しいものを立て続けに鑑賞しているせいでちょっと消化が追いついていない。今週は基本ずっと『君たちはどう生きるか』の余韻のなかに居たかと思えば、何となく最近の小説が読みたくなって3冊ほどKindleで評判のよい作品をまとめ買いし、その中に入っていた『ハンチバック』が芥川賞を獲ったもので、せっかくだから最初に手をつけて昨日ちょうど読み切った(短いのですぐに読めた)。

音楽の方ではちょうど今日ブラーの新しいアルバムが出て、NewJeansの新しいEPが出て、いよいよ約1ヶ月後に迫ったサマソニのこともうっすら考えるような段階に入ってきた。それで今日は『M:I』だ。詰まってる。

とはいえ、今日観たのは何も考えずに眺めていられるアクション映画で、内容もしっかり馬鹿馬鹿しかったので、ちょっと頭がさっぱりするような感じがあった。ただ、予告編で見せすぎているせいもあって、アクションに驚かされる部分は前作や前々作ほど多くはなかった(前半のカーチェイスは最高!)。

究極的には、我々はトム・クルーズがCGやスタントに頼らずガチで体を張っているかどうかしか気にしていないので、その辺りをもう少し情報仕入れてたから行った方が良かったかもしれない。トムが「ガチ」をやっているシーンはそういうテロップを出してほしいくらいだ。あと、これは誰もが思っているだろうけど163分はさすがに長いし、更に後編もあるというのだから呆れる(と同時に、そういったマキシマリズムこそ、現代のアメリカが産み出す娯楽の真骨頂でもあるとも強く思う)。

いちいち感想や批評を(鑑賞からさほど間をおかずに)アウトプットしなければならないという思い込み・内的な圧力が窮屈さの素なのだ、というようなことを考えていたはずなのに、けっきょく感想を書いている。

そういえば、きょう駅に行くまでの道のりをシェアサイクルを漕いで行ったんだけど、何もないところでバランスを崩して体の左側を思い切りフェンスにぶつけてしまい、普通に怪我をしてしまったのだった。自分はトムにはなれない。

帰りに寄った本屋で、こんなの小金稼ぎだろと分かりつつ買ってしまった。

案の定、書き下ろしはほとんどなく既存のテキストを寄せ集めて再構成した内容なので、たとえば『もののけ姫』みたいな作品についてはほとんど知ってることしか書かれていない。が、『ゲド戦記』とか『アーヤと魔女』みたいな、自分からは積極的に調べようという気にならない作品のサブテキストが簡潔にまとまっているのはいいなと思った。

『君生き』についてここでちゃんと書こうかなという気持ちも若干あったんだけど、Filmarksにもうだいぶ長々と書き散らしてしまった(ディテールについてはこれでもだいぶ端折った。いちいち言及していたらキリがない)し、自分で当初の感想を見返すぶんには一旦これでいい。人の感想を見聞きしているうちに自分のなかの作品像もぐにゃぐにゃと変化してきているので、そこに踏み込まれる前に考えた内容を可能な限りそのまま残しておきたいという気持ちもある。

そういえばアマゾンプライムで『シン・仮面ライダー』の配信も始まってるのか…夜中にでも観よう(けっきょく、劇場に足を運ぶ勇気は出なかった)。

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人に読まれることが念頭に置かれている時点で、気取った自意識過剰な文章になってしまう。それが耐えがたい(これだってそうだ。ただの予防線に過ぎない)。

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『ジャクソンひとり』素晴らしかった。

『シン・仮面ライダー』配信で観たけどひどすぎた。ひどい!!!!!!!

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他人(ていうかおっさん)から突然攻撃的なことを言われたりされたりすることは、中肉中背の男である自分とてたまにあるので、女性や子供に対するぶつかりおじさん的なものの存在が多いことは疑う余地もない。

少し前に、「舐められたくないから息子に空手を習わせたい」という趣旨のツイートが物議を醸していた。自分も、たまに攻撃的な人間の標的にされたとき、見た目だけでもいかつければやられなかったのだろうか、というようなことはつい考えてしまうが、それがそもそもマチズモでマチズモを制するという発想なので、何の解決にもなってはいない。

例えば、自分に物理的な力があって、女性にぶつかったり暴言を吐いていた男を横から叩きのめしたとする。その後、何が起こる? 思うに、五体満足で生きている限りその男は全く同じことを続けるのではないだろうか。それどころか、私に叩きのめされた屈辱が、男の行動をより過激化させるということもあり得るのではないか。(そして、このばあい私自身はおそらく復讐の対象になることはない)

他人に対して有害な振る舞いをすることに躊躇がない人間が本当に恐ろしいのは、それを嗜められたり、私刑的な罰を食らったところで、また別の相手を探すのだろうと思わせるところにある。暴力は際限なくトリクルダウンし、その最終的な受け皿はたとえば子供たちのような、本当の意味でもっとも弱い存在になるだろう。

誰だって、有害な他者を罰したい、もしくは、罰してほしいと思っている。と同時に、我々は守らなければならない存在を人質に取られてもいる。

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Twitterをやめた。厳密にはやめたわけではなく、フォローフォロワー0人の、ツイートもリツイートもお気に入りもしない、非公開リストで擬似的なフォロー欄みたいなものを作って眺めている。要するに、発信すること自体から降りつつ、他人の発信は自分の暇潰しとして消費することはやめていない。

何だかずるいような気もするが、何かをアウトプットする能力に長けたひとがいて、そうでないひとがいて、前者が発したものを後者が読むという構図自体はSNSが登場する以前からずっとあったわけで、特段アンフェアなものでもないのかもしれない。むしろ、「そうでない」我々が愚にもつかないことを呟いて、それを文字情報に残したところで、何になるのだろう。そういう状況のほうがむしろ異常なのではないか。

インターネットに放たれるつぶやきに、ボトルメール的な、郵便的な何かを期待していた時期もあった。が、もうそんなポジティブな気持ちは欠片も自分の中に残っていない。アルゴリズムと広告に蹂躙され、アマチュアリズムの拡張をするはずがしみったれたマネタイズの手管に堕ち、挙げ句の果てにはイーロン・マスクに金で買われたツイッターを見るがいい。自分が最近インターネットや、SNSや、社会や、そういったものに対して感じていた虚無感に裏付けを与えるようなことばかりが起きる。要するに、もううんざりなのだ。

げんに、ツイッターはもうほとんど、リアルの知り合いとの連絡や情報交換の場としてしかほとんど機能していなかった。

こういうニヒリズム塗れの文章ばかりが下書きに溜まっていく。

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仕事に対してはつねに焦燥感があり、余裕がなく、子供に怒ることも増え、人生について後ろ向きなことを考える頻度がかなり多くなった。抗不安薬の効き目もなんだか良くない。

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ここ数ヶ月自分が考えていたことを端的にまとめると「(特にSNS以降の)インターネットが無理だ」ということに尽きる。私たちは、たとえばプロの仕事にきっちりと対価を支払うこととか、物理的に近しい人々との関係を大切にすることとか、そういう人間の営みの基礎的なところからやり直すべきなのだ。