見出し画像

そんな日もある

そういえば、大江健三郎さんが新聞に、江藤さんの遺書に関して書いていたそうですね。 「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり」と書き残すことは、ヒロイックに見えるけれども、現に脳梗塞を乗り越えてリハビリに励む人たちに無礼じゃないでしょうかと、つまり、そんなふうに過去の自分を絶対化するのはセンチメンタリズムにすぎないのじゃないか、大江さんは疑問を呈していたとある人が電話で教えてくれました。 それを聞いて僕は、「確かに正論でしょう。しかし、そうした眩しいほどの正論を作家が言ってどうするのだろうか」と答えたんです。ヒロイックだセンチメンタルだといっても、江藤さんという人の生き方や発言を見ていると、あの結末のつけ方は当然だとも思うんですよ。

小島信夫『小説作法』(中公文庫)381頁

新橋で東海道線のグリーン車に乗り込む。そして、中公文庫で出たばかりの、小島信夫の本を後ろのほうから読む。

江藤淳の自死をめぐるエピソードから始まるこのテキストは語り起こしで、「そして、小説は生き延びる」というタイトルだ。小島信夫で、しかも語り下ろしなので、話はあれこれ変わってまとまりはないのだけれど、文節ごとにいろいろなことを考えさせられる語りがおもしろくて、2回読み返す。例えば、「一つの小説で印象に残る部分は、やっぱり謎の部分」とか。

そして、なぜ江藤淳の話から話し始めたのかと言えば、「しかし、そうした眩しいほどの正論を作家が言ってどうするのだろうか」という呟きこそ、彼にとっての小説論だったからではないか、とか思う。

2023年5月3日。今日も世界は「眩しいほどの正論」に溢れているみたいだ。「暗殺が成功して良かった」という作家の発言がネットニュースになっている。

平塚は快晴。
ウクライナ支援を表明しているクラブの活動の一環で、入場ゲートでひまわりの種をもらう。

湘南1-2柏

試合はカウンター2発で2失点して敗戦。気がつけば、降格ラインが近づいている。
思えば、ひまわりユニフォームを着用した昨シーズンのGW中に行われた試合(対清水)も酷い負け方だった。でも、その清水が今シーズンはJ2にいるのだから、Jリーグはおもしろい。スタジアムではビールを1杯飲んだ。

帰宅して、本棚の奥から古い文庫本を取り出して読む。集英社文庫の『ヒコクミン入門』の奥付は2000年2月25日第1刷となっている。23年前に付けた付箋が残っているページを捲る。ちなみに、23年前の島田雅彦は今のわたしと同じ年齢だ。

 天皇制を無視することは日本人である以上その容認と同義だ。天皇制の維持にとっては無視こそ歓迎されるべき態度にほかならないから。それでは反天皇制を論理的に語るとどうなるか? 戦時中は特高警察に仕事を与えてやることもできたが、今日では言論は言論の枠内にとどまり、なりゆきの暴走に不快感を表明する力しかない。それどころか昭和天皇崩御をめぐる暴力的ともいうべき自粛ムードの中では「言論の自由」なるものは一種の語義矛盾と見えなくもなかった。それは誰もが好青年や紳士、ファッショナブルな女や文化おばさんになるような言論だ。彼らはやたらに感動したがり、むやみに "愛"を唱え、それとなく道徳の番人になる。お金と世間体を崇拝し、天皇を敬うことでそういう自分たちの立場を無意識に正当化する。それを自由な言論と錯覚している。しかし、言論の自由とは使いこなすのが厄介なものなのだ。とりわけ、共感の共同体の内側では。 言論は主に個人の責任と権利であるのに対し、なりゆきや共感は個人が消失したところ、すなわち集団の無責任の中から現れる。現れるともなく昔からそこにあるようなふりをしている。言論が集団化した時、それはイデオロギーとなる。しかも、日本ではイデオロギーはしばしば、なりゆきや共感と混じり合い、無責任、無批判な制度という名のアマルガムと化す。何処かで聞いたことがあるような言論なんて全てこのアマルガムの中に溶け込んでしまうのだ。

島田雅彦『ヒコクミン入門』(集英社文庫)14頁

23年前、「炎上」という言葉はまだなくて、「自粛」という言葉と、その記憶がまだ鮮明だったのだろう。23年後のいま、「自粛」は「不要不急」とともにコロナ禍の言葉として上書きされてしまっている。けれど、「やたらに感動したがり、むやみに "愛"を唱え、それとなく道徳の番人になる」ような「好青年や紳士、ファッショナブルな女や文化おばさん」は今もそこかしこにいる。そして、「言論の自由」の語義矛盾と「自粛ムード」はもはや常態化してはいないだろうか。こんなネットの片隅の文章においてすら。

「眩しいほどの正論を作家が言ってどうするのだろうか」と呟いて、眠る。

そんな日もある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?