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入学式

先日ついに長女が小学生になりました。こども園からのお友達は8人ほどいたのですが、同じクラスになったのは1人だけ。長女のコミュ力があれば、きっと友達もできるでしょう。体育館で入学式を終え、教室に移動します。

私も同じ小学校出身なもので、少しテンションが上がっていました。そして、体育館から教室への道で、すっかり迷います。

本当に私はこの学校に通っていたのでしょうか?

教室では、ベテランそうな先生から色々な説明がありました。

何か、大変そうです (つまり、ちゃんと聞いていない)。

帰り道、小学校に行きたくないと言い出す長女。他の友達も同様に、ブルーな気持ちに染まっていました。

おそらく、緊張していたせいでしょう。
一週間もすれば大丈夫だろうと、たかをくくっています。子供が極力ストレスと疲れを溜めないように努めるしかないのです。



そんな中、
小学1年生の教科書をゲットした私 (もちろん私のものではないです)。



約40年間生きてきて、何度か思ったことがあるのです。
「もっと勉強しておけばよかった。」

何となく口走ったことがあるのです。
「小学生からやり直したい。」

特にそれを感じたのは、留学中の頃。

高校卒業と同時にアメリカに渡った私。
特にそこまで勉強していなかったので、言語ではそこそこ恥ずかしい思いをしました。ですから、真剣に英語を勉強し、アメリカの大学生としてやっていける程度の英語力を手に入れたのです。

これでもう恥ずかしい思いをしなくて済むと思っていたのですが、


とある婦人「わぁーあなた、日本から来たのね~。すごーい。ワタシ日本人初めて見たわ。日本ってどういうところなのかしら?どういう、政治なの?」

私「……、……。(日本の政治!?)」

とある婦人「いいのよ。いいのよ。色々聞き過ぎちゃったかしらね。あなたは、まだ英語が喋れないから。ごめんなさいね。」



ルームメイト「俺のルームメイトが日本人と聞いて、ずっと会えるのを楽しみにしてたんだ。アメリカにはあまり歴史がないから、日本のような歴史の深い国にいたなんて羨ましいよ。歴史好きで、俺の飼っている犬の名前も「ムサシ」っていうんだ。色々話を聞かせてくれよ。」

私「……、……。(日本の歴史の?)」

ルームメイト「いいんだ。気にしないでくれ。まだ英語が出来ないからだよな。すまなかった。」



あんなに勉強をした英語が、全く意味をなさないのです。
たとえ英語が出来たとしても、結局は何も喋れないのです。
知らないと言うことは、喋れないのと一緒なのです。
「何語で喋るか」よりも「何を喋るか」の方が100倍大事であると言うことに、この時ようやく気づいたのです。


あれから20年。


今、私の目の前に小学1年生の教科書があります。あとは、ジャポニカ学習帳を用意するのみ。

長女よ。小学生になってくれてありがとう。

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