燭台の鶴亀

浄土真宗では毎年親鸞聖人のご命日に合わせて「報恩講」が勤められますが、私どもの手次寺では今月10日に執り行われ、それに先立って7日に本堂の清掃と仏具のお磨きが行われました。
 
「お寺のことは年寄りの仕事」と、母が存命中はこうしたことに全く無関心の私でしたが、母も亡くなり手次寺では数年前から役員の若返りが図られたこともあり、今年初めてお磨きの奉仕に参加いたしました。
 
さすがお寺の仏具、自宅のそれの2倍、いや3倍くらいの大きさで、十数名の参加者が力を合わせても2時間近くかかりました。白い研磨液を歯ブラシで塗布した後、布で拭き上げ、最後は新聞紙で光沢を出します。
 
昨今「テガール」とやらにドボンとつけて終わりというお磨きものが主流になってきているようですが、個人的には結果の美しさより磨くという過程こそに意味があると思います。といいながら、作業は想像以上にハードで、翌日はあちこちが筋肉痛に。
 
ところで仏具の燭台は「鶴亀」と相場が決まっておりますが、その理由は「鶴は千年、亀は万年でめでたいから」くらいに思っていたら、実はもう少し深い意味があることを、一緒に参加していたT君から教わりました。
 
「蝋燭の火を川を越えて運ぶのに、亀は泳げるが水中で火が消えてしまう。鶴は水上を飛べるが羽ばたくと風で火が消える。鶴が亀の上に乗って両方が力を合わせれば、火を消せずに運べる」からだとか。お寺も門徒それぞれの持ち味を生かし協力して支えていけということでしょうな。

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