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かあちゃんのいない新年に起きた大地震

2024年1月1日の朝 

「今年は二人だけの新年やね。」
と節子がいった。  (節子は私の そいあい です。)
毎年、息子夫婦と孫たちは暮れから お嫁さんの里、新潟県の三条に帰省?し午後に帰ってくる。
 10年前に娘が嫁いでからは、ずっとかあちゃんと3人で新年を迎えた。
 だんだん弱っていくかあちゃんだが、それでも去年はまだ部屋から
シルバーカーでやってきてテーブルにつき、雑煮の餅2つくらいをぺろりと食べた。そして多分、節子と紅白歌合戦の話をしたのだった。

お年玉


爺さんと婆さんになった私たちに かあちゃんは 毎年、正月にお年玉をくれたのだ。

「お前たちのおかげで生きとれるがやから。受けとらっしゃい。」と、断っても押し付けてくる。 私達は、いくつになってもかあちゃんにとって子供だったのだ。
 そのお年玉、今年からはない。
        
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 かあちゃんが93歳で死んでから4か月が過ぎた。
腹が痛いと救急車に乗ってそのまま入院し4週間であった。
 弟と私の見守る前で息が止まった。
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それから4カ月以上が過ぎた。新年の朝は2人で迎えた。
 今年は年賀状も来ないし、初詣もしないから静かな静かな朝であった。
 額に収まった母ちゃんに朝の挨拶をすると涙があふれた。
 
 それでも、5時くらいから弟や、子供たちや孫たちと食事会くらいはしようと掃除やら、料理やらの準備を二人で分担して過ごした。
 「もう3時半すぎたから、そろそろ、とりにいってきて。」と言われて2キロ先の魚屋へ車で刺身やら焼き魚やらオードブルやらを取りに行って帰宅したその時であった。

震度5強

 バックで家へ進み始めた車が左右におおきく揺れた。なんだこれは!
 地震や!
 と思ったのでエンジンを止めた。すぐ収まるだろうともおもいそのままでいた。しかし、おさまらないので、車を降りてしばらくたっていた。随分と長かったように思えたがどうだったんだろう。節子は家を飛び出してきており、震度5強だと伝えてくれた。
 とにかく買ってきた刺身などを家に入れ、一休みしていると又ググッときた。
 余震。その後も何度も余震があった。
 弟は 「怖がる○○を残して行けない。」 という
 娘は 「孫たちが布団かぶって隠れてた。」 という。
 三条からこちらへ向かっている息子たちは 黒部あたりで避難所にいるという。
 家の中ではいくつか落ちたり、倒れたりした。仏壇の中にあった小ぶりの木製の仏像、額ブチ、机の上の地球ゴマなどなどだ。
 
 みんなで一緒にというレベルではない。

今日は、誰も来れない

 時々、起きる余震の中、刺身など有り余るなま物の料理を食べる。当然ながら2人で4人前くらいで嫌になった。息子たちや孫たちが帰宅してから食べさせてやろうとラップをかけた。
 テレビから流れるニュースに疲れ、床に就く。2度、3度と余震があったが最初の強烈な揺れを経験した後では余り気にならなかった。そして、いつの間にか寝てしまっていた。
 「帰ってきたよ。」その声で飛び起きた。
 夜中に息子たちは帰宅した。0:30頃であった。

 
2日後、孫の誕生祝のケーキを取りに隣町の和菓子屋さんへ行く途中でブルーシートをかけた家を2軒見た。

 

その後、

時間がたち、9キロ先の国道の大崩壊が新聞に載り、周辺でもブロック塀が一部損壊したり、スーパーの天井が破損したり、小学校の壁にひびが入っていたりと被害のあることが分かってきた。
 50キロ以上離れたところでこういう状況である。

 明日で2週間、今日は朝から雪が降りだした。
 かあちゃんが生きていたら、「かわいそうやなあ。」と言って、きっと仏壇に向かって手を合わせていたに違いない。
 人が築いてきた努力の成果をいともたやすく破壊してしまう自然の力にただ手を合わすより他にない。
 どうか、これ以上いじめないでくれ。と
 かあちゃんは、そう願って手をあわせるにちがいない。
 
 







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