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あと1年と言われましても 〜メモワール(3)〜

(3)

前回書き込んだ(1)退院後から(2)夏までの内容をもう一度読み返してみた感想です。

・思い返しながら書いていたため、言いたいことがちぐはぐしてしまった。

・先に書いたエッセイ『あと1年と言われましても』を読んだ前提で話を進めているため、不親切な内容になっていた。

結果、ちょっと読みにくかったかな、と反省しています。

改善点として、このメモワールから読み始めた人でも話に入りやすくするために、ここで軽く『おさらい』として

・人物紹介
・今までのあらすじ

を簡単に記載しますね。


ーーー人物紹介ーーー

【ゆま】
私のことです。
夫婦間での通称『どぶちゃん、どぶちん』などなど。子無し。HSPで繊細さん気質。結婚前は自営業の親元で選択の自由なく働いていました。結婚後は主婦ときどきバイト。夫の退職後は私のような未経験でも正社員で雇ってもらえる仕事を探して就職しましたが、ほんのりブラックな会社ばかりでなかなか自分に合う仕事に巡り会えず、3年と持たずに仕事を転々としてしまい、現在に至ります。


【ゆうま】
私の夫です。
夫婦間での通称『なむちゃん、なむちん』などなど。元公務員。部分的にHSP気質で責任感が強く几帳面で神経質。仕事も徹底的に納得いくまでやり抜くため、残業や休日出勤は当たり前、有給など取ったことがないくらいでした。周りにも気を遣い、精神的にも体力的にもクタクタな時でさえ笑顔と優しさは絶やさない人でした。HSPには珍しく自己肯定感が高くメンタルは強かったのですが、さすがにうつ病一歩手前のようになり、10年前に退職。主夫しながら作家への道を志すも芽が出ず、今後どうシフトチェンジしていくか悩んでいるところで脳腫瘍(脳のがん)が見つかりました。10万人に数人という希少がんで、手術できず治療法も無い病気でした。


【みき】
私の実母。
私の実父はすでに他界した。父が病気になった時点で自営業は廃業し、長年住んでいたマンションを引き払って自分の地元に古い戸建ての家を買い、そこで父の介護をしながら暮らしていたが、現在ひとりで住んでいる。両親共に毒親。子供を支配する系。傲慢で不遜で無神経で気性が激しくヒステリック、ガサツ、適当人間……(書き出すとキリがないのでこの辺でやめときます)だがしかし。最近は「この人もきっと毒親に育てられてこんな人物になってしまった可哀想な人」だと思うようにした。ある意味『宇宙人』だ。私の常識とは違いすぎて理解不能。私のことを『自分が育てたブランド、もしくはペット』のような感覚を持っているが、それもきっと愛情というものがわかっていないからだと思うことにした。歪んでいるが、この人なりの愛情が私に注がれているのだろう。


【とおる】
私の弟。
きょうだいは弟ひとりだけ。特に登場はしないが、毒親に育てられた弟もなかなかに強烈な性格。お金に対しての固執が強く、家族愛、兄弟愛、常識などは無いみたい。この30年くらいをすべて合計しても1時間、会話をしたかな?してないと思う。そして私は弟のことが嫌い。(母が異常なほど弟を溺愛しているので、その気持ち悪さも相まって。)


【義理父・義理母】
夫の実の父母。
義理父のアラウンド60での浮気、浮気相手の妊娠、自営業の事業失敗による自己破産の巻き添えなどなど、怒り爆発して別居中。
義理母には何か思惑があるようで離婚はしないそうだ。義理父は昭和の人間っていう感じで、もっと言うなら私の母のみきに性格が似ている。だから嫌いだ。

義理母は基本的には優しい人だが、変なところで頑固で譲らず、部分的に『こうあるべきだ』が強く、変わろうとはしないところがある。



ーーー今までのあらすじーーー

10年前にうつ病一歩手前のようになった夫から「このままこの仕事をしながら人生を終えていくなんて嫌だ!俺、やっぱり作家になりたい!チャレンジさせてくれないかな?絶対に賞を取って稼いで、印税でずっと食べていけるようになるから!」と言われた。

作家になりたいと思っていたことは知っていたし、副業でやれるほど器用でもなかったし時間も体力もなかったことも知っていた。

夫を信じて主夫を任せて、いざ私が大黒柱として出発したものの、全然夫の芽が出ない……

そろそろ別の収入先を検討してもらわなければ、と思っていた矢先に夫の病気が発覚し、みるみるうちに夫が動けなくなっていく。そして緊急入院。

脳のがん、一般的ながんではない。
もう治らない。
今後は「悪くなるのをいかに遅らせるか」しかない。
先生から「早ければ年内」と余命宣告を受けたのは3月だった。

入院中に要介護2の判定を受けた。
自宅で在宅介護ができるかどうか、退院までに何を準備するべきなのか、コロナ禍で見舞いにも行けず状況もわからず判断しかねていた。


しかし、そうこうしている間に夫は劇的に回復。
そして初夏、自分の足で歩いて元気に退院した。

心配してくれたみんなにはすべてを話したが、夫には『余命』以外のことを正直に話した。
みんなお見舞いに来てくれて、愛の溢れる幸せな時間が過ぎていく。

夫は「俺は全然何ともないけどね、痛くも痒くもない」とニコニコする。

私はそれを微笑ましく聞きながら、しかし病魔は確実に脳にいるんだと思ってしまう。

タイムリープしたかのように、症状が進行した夫を再び見ることになる恐ろしさと、今の幸せのギャップに苦しんで、また眠れぬ夜を過ごしてしまう。

「今から考えてもしょうがないことは考えない、前を向いて、どんな時も私だけは先を見据えて行動しなければ。なむちゃん、大丈夫よ、私が付いてるから安心してね」と、寝ている夫の頭に手を置いて誓いを立てていた。

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ここまでがあらすじになります。


今後もまた話が前後したりして読みにくいところがあれば、後日改めて書き足したりしながら、自分の気持ちの整理をしていけたらなって思ってます。

正直、現在やっと少しずつ思い出せる状況になった感じで、本当に色々あって、人生で一番ツラく苦しい時期でした。


今までは親と過ごした20代くらいまでが人生で一番苦しいと思っていました。
家には毒親、学校ではいじめにあっていましたし、自殺も考えていたほどだったし、友達もいなかったし。

まあ、今も友達はいませんけど、今は必要ないと思っているので特には困っていませんが。

結婚して本当にのびのびした生活だったんだなと思うのは、何と結婚後に身長が3センチも伸びたんですよ。
世界がキラキラして見えていました。

一生分の幸せを先取りして味わったと思って、今の寂しさや悲しさをまぎらわせているところです。


さて、では夏からの続きを書きたいと思います。

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夏になって、夫はすごく疲れやすくなっていった。

いつもの近所のスーパーに行くと買い物途中で限界が来て、近くのベンチで座って私を待つようになり、体力が落ちていった。
帰りは足取りも重く、帰り着いたらすぐに横になり眠ってしまうほど疲れていました。

「これは、前回の初期症状っぽくない?」と恐ろしく感じたものの、もう病名もわかっているし、薬も無い。

夫は「俺は昔から夏に弱いからね、大丈夫、ちょっと寝たら治るから」と微笑んでいた。

わかっているのにどうすることもできない。できるだけ現状維持、それしか願うことができない。

「いい年して恥ずかしいと思うだろうけど、今度から外に出る時は手を繋いでもいいかな。なむちゃんが疲れてふらふらしたら危ないから」と私が提案すると、
「えー!……でも俺に拒否権は無いからなあ、わかったよ」とちょっと困った顔で了承してくれた。

手を繋ぎながら散歩に行ったり、買い物に行ったり。
昔から照れ屋さんで、手を繋ぐのは人のいないところくらいだった夫が、あきらめがついたのか、人目を少し気にしながらも自分から手を差し出して繋いでくれるようになった。それが嬉しかった。


母のみきからよく連絡が来るようになった。
夫の病気を親族へ伝えて、見舞金を集めては「振り込んだから」と電話してきた。
そもそも電話なんて今までは1年に1度するかしないかくらいの頻度だったけど、私もお金が必要だったから、電話では普通に会話していた。

父の介護の経験者として、母は色々とアドバイスをくれた。気持ち的にも励まされるセリフが多く、何度か電話するうちに少しずつ母との距離も縮まっていった。

「今後介護ベットとか必要になったら置く場所ある?普段着ない洋服とか、要らないけど捨てられないものとかあったらこっちに送ってきていいわよ、預かっておくから」とか
「もし今後、家賃を払っていけなくなったら、こっちで同居してもいいわよ。一軒家で家賃もいらないし、介護しながら働きに行けるでしょ、その間は私が見ててあげられるんだから」とか言ってくれる。

しかし!以前母は夫に暴言を吐いたことがある。

夫が仕事を辞めて、その報告をした時に「あなたが公務員だからゆまとの結婚を許したのに!こんなことならもっと違う人とお見合いの話でも持ってきて、別の人と結婚させれば良かったわ!あー!まったく!こんなはずじゃなかったのに!」と本人に言った。

スゲーな……よくそんなことオブラートにも包まず言えるもんだ……結婚『させる』って何なん?私の結婚なのに。さすが毒親。

夫は「言われてしょうがないよ。俺のせいで大事な娘が働きに出るんだから。特に『公務員の夫』と言うブランドがお母さんには心地良かったんだろうと思うし。でもハッキリ言われるのはやっぱりキツいな……」と苦笑いしていた。

そんな親とは同居できない!……と思う反面、じゃあ義理父と義理母は?と言うと、二人ともワンルーム賃貸マンションだし。

その上、義理父が義理母に「安い一軒家を借りて、お前と俺とゆうまとゆまと4人で住むのはどうだろう?」と打診してきているらしい。

義理母は「ゆうまのためならしょうがないけど……」と言っているが、またあの義理父と同居など嫌に決まっている。せっかくひとり悠々自適に、年金で慎ましく暮らしている義理母が、今更4人で同居など、ストレスも半端ないだろう。

介護の視点で考えるなら、私の母のみきに面倒見てもらうより、自分の母親に面倒見てもらうほうが良いだろうけど、夫が言うには、父親と母親をもう一度同居させるのは嫌だという考えが強いらしい。

私もあの義理父と同居なんて嫌だけど、みきとの同居も嫌だ。

でも家賃払えなくなったらどうする?
とにかく、私が今後どこかで働くにしても介護を考えたら正社員は無理だ。
私がパートに出るとしても、やっぱり夫の稼ぎが必要だ。
夫の疲れやすい状況はいつまで現状維持できるのだろう?1年?2年?本人は「俺は長生きする」って言ってるけど、それが本当なら月に7万円くらいの収入があるバイトにでもついてくれればやっていけるんだけど、働けるの?

そのジャッジを年明けにはしなければ。

逆に年明けまでは夫の病状も慎重に見据えながら、2人で過ごす大事な幸せな時間にしよう。
多分もうこんな時間は作れなくなる。


私サイド、夫サイドの各親族たちから本当にたくさんのお見舞いを頂いた。
そしてみんな声を揃えたように「お返しとかいらないから気をつかわないでね。病院代でも生活費でも、2人のいいように使って!」と言ってくれた。

そのおかげで日々を持ちこたえることができて、幸せな時間を2人で過ごすことができて、感謝しかありません。


まだまだ残暑の残る秋のある日。

退院してから2回目となる脳のMRI画像を見せてもらった。
左側にできた腫瘍の影は2つ。
それは何度も見て知ってるけど、それとは別で、脳の真ん中に白い影が写っていた。

ほのかに、でも確かに影がある。

主治医は「この画像だけでは何とも言えませんが……経過を見ていきましょう」と言っただけだった。

何でもそうだと思うけど、だいたい真ん中にあるものって大事な物が多いと思う。調べてみたらやっぱり脳の真ん中って生命維持装置みたいなのがある所。

「うそでしょ?でもわかってた、こうなることは、いずれね、でももう来たの?早くない?でも余命は年内って言ってたし……、でも本人はこんなに普通なのに?」と私の脳内でいろんな『私』がしゃべりだす。

「今日は帰りに何食べて帰ろうか?」なんてニコニコする夫。
「何でもいいよ」と私は普通を装って微笑む。
「じゃあ、いつものラーメン屋さんでいい?この時間、混んでるかな?」と歩き出そうとして私に手を差し出す。
「混んでてもいいよ、待とうよ。時間ならいっぱいあるし」と手を繋いで病院を出た。

今考えてもしょうがないことは考えない。なるようになっていくしかない。私の力は及ばない。でも最善を尽くす。

大丈夫、私が付いてるよ、こうやって手を繋いで最後まで。

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この続き(4)はまた後日書きたいと思います。

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