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生成AI画像が登場しても自己のアイデンティティを保てるか

最近、生成AIによって職を失ったり自分の存在意義を失った者が東尋坊で自殺しにくることが増えたという記事を読んだ。
ボクも遙か昔にイラスト描きを仕事にしていたことがあったが、他にも多くのイラストレーターがいる中で生き残るのは難しいと判断して早々に撤退したことを思い出して複雑な気分になる。

生成AI画像については、ボクは20年くらい前(2000年前後)に「いずれこのような技術が現れる」と確信していた。だから、ようやく時代が追いついた感がある。
もちろんこれは予言というような大それたものでは無い。技術の進歩の方向性を見ていれば必ず行き着く解答。先入観や感情を排して淡々と計算式を解いていくかのごとく考えれば、誰でも辿り着く必然的結論。

ただそれにしても、生成AI画像の登場によって写真を撮ることの意味が無くなる世界の実現も現実味を帯びてきた。さすがに趣味の写真という範疇では東尋坊に行くことも無かろうが、趣味を失うことにも繋がる話。

ここでは、生成AI画像の登場によって、写真を撮る者のアイデンティティをどのように保つべきかを考えたい。

●「写真」と「絵」の境界線

まず、「写真」というものは何かということについて考えてみる。
電子画像が現れる前の銀塩写真時代、「写真」と「絵」には明確で越えられない確たる境界線があった。結論から言えば、「媒体の違い」である。

感光物質に光が当たって化学変化が起き、そこから画像が現れるもの。それが写真である。外国語ではPhotography(光が描く絵)とかHeliography(太陽が描く絵)などと呼ばれるが、まさに写真の本質を表している。

また、レンズを使わずとも光によって像が現れればそれで写真と言える。日光写真も結果的に得られる媒体は感光物質である。銀塩式のレントゲン写真(X線写真)も同様。
それから実在するか知らないが、念写も写真と言える。

逆に、写真を掲載した印刷物は「写真」ではない。それはあくまで「印刷物」である。”印刷物に掲載された写真”という意味を込めて「写真」と呼んでいるのであって、本当の意味での「写真」と呼んでいるわけではない。それゆえ、印刷物に掲載された写真と明確に区別するために、本来の写真を「生写真」と呼んでいたのである。

一方、絵については、画材を使って描かれたものを指す。人間が描こうがロボットが描こうが、絵の具や鉛筆で描けば「絵」である。いくら写実的で写真と見紛う出来であったとしても、光が感光物質に描いたものでなければ「絵」である。

では「絵」をフィルムカメラで撮ったものはどうなる?
結果的に感光物質の媒体となるのだから、それは「写真」である。名画モナリザをフィルムカメラで複写したとしても、それが絵として認められないことを考えれば分かること。それはモナリザを写した「写真」なのだ。

●電子画像は「写真」か「絵」か

電子画像とは、一般的にはデジタル画像のことを指すが、昔はアナログ方式の電子画像も存在したので、デジタルとアナログの両方を指す「電子画像」と呼ぶことにする。
結論から言えば電子画像に「写真」と「絵」の境界線は存在しない。
なぜならば、電子画像を構成する媒体は「写真」と「絵」も同じ”ピクセル”だからだ。ピクセルはカメラで得られるし手動で塗ることもできる。

単純な話にすると、1ピクセルの電子画像があったとする。
これが、「写真」なのか「絵」なのか、誰が区別するだろうか。どっちなのか分からないという意味ではなく、区別が存在しないのだ。

だから、このピクセルを増やしていって1,000万画素になったところで状況は変わらない。電子画像において「写真」と「絵」は区別が存在しない。もはや「画像」と言うほかない。

<このピクセルは写真か?絵か?>
<ピクセル数を増やしていくと・・・>
<ここまでくると写真に見えてくるが本質は絵でも同じ>

今この時代、ボクらはデジタルカメラ(スマホに内蔵されたデジタルカメラを含む)で写真を撮っているわけだが、ここまで書いたとおり、これは厳密には「写真」ではない。「写真」とも「絵」とも言えない「画像」を撮っていたわけである。

確かにカメラで撮ると、光によってイメージセンサーが画像を生成する。「まさにこれこそ写真じゃないか」と言いたくなる。しかしイメージセンサーは、あくまでも光を電子画像に変換する装置であって媒体そのものではない。

・デジタルカメラで撮った風景の電子画像
・デジタルカメラで複写した絵の電子画像
・イメージスキャナでスキャンした絵の電子画像
・PC上で描いた絵の電子画像
・3D-CGをレンダリングした電子画像

それらは、同じ電子画像の形となり、それぞれの区別は無くなる。
この本質を理解し事実を受け入れないでいると、これから出てくる生成AI画像に翻弄され、自分自身の価値観さえ揺らぐこととなろう。

●生成AI画像が加わった

そして今日、電子画像の生成に生成AI画像によるものが加わった。
なお現時点では、生成AI画像の創り出す画像は写真としてのリアリティを欠いており絵のようにしか見えない。
それに、世間一般の嗜好で学習内容が左右され、一般的嗜好とは異なる画像の学習は足りていない。つまり学習内容が偏っている。

下の写真は「畑で咲くサツマイモの花、斜め45度のメインライト、背後から補助光」という指示でAI生成させたものだが、サツマイモの花のデータが無かったせいで最初はナス科の花が表示されたため、補足として「アサガオ科」(本当はヒルガオ科)と指定してようやくそれっぽい画像になった。
だがどれも絵に見える。

次の写真は「美人」の画像をAI生成させたものだが、もちろん「美人」と指定しても現実には多種多様な美人がいるので、ボクの考える美人として「一重まぶた、目が細い、丸顔」と指示したのだが、出力結果は以下のとおり。
これは恐らく、世間一般に言われる美人以外のサンプルが無いせいであろう。完全に指示が反映されていないのだから。ちなみに10回以上も言葉を変えながら試したが、同じような顔立ちばかりが出てきて埒があかない。

そういう意味では下の写真もかなり問題がある。
「200mmレンズで撮影した第二東名高速道路を走るベージュ色のメルセデスベンツW123の写真」としたのだが、W114が混ざっていたりする。サンプルが足りないことは明らか。そしてどれも絵に見える。


現状はこのように完全に「絵」ではあるものの、油断してはいけない。電子画像には「写真」と「絵」の境界は無いということを忘れてはならない。いずれAI技術が進歩し、そしてサンプリング数が増えれば、問題は完全に解決されて生成AI画像が「写真」の領域にまで入り込むことは確実。
これは電子画像が登場した時から運命づけられていた既定路線なのだから仕方ない。

どんなに苦労してどんなにコストをかけてどんなに時間をかけて写真を撮ったとしても、生成AI画像で全く同じ画像、いやそれ以上の画像が得られる時代は必ず来てしまう。
そして、自分が撮った写真を他者に見せても、生成AI画像で作ったものとしか思われない。仮に「自分で撮った」と言ったとしても「なんでわざわざそんなことをするんだろう」と思われるのがオチ。そんな時代に、趣味としての写真撮影を続けていけるだろうか?

●結局は自分自身の問題

問題は、自分自身の中にある。
写真に対するスタンスとして、自分が満足するか、それとも他者を満足させるかという違いが大きく影響するだろうと思う。

端的に言えば、「人に褒められる写真を撮りたい」という動機で写真を撮っているのであれば、生成AI画像の時代にはとても自己のアイデンティティを保つことは難しい。

SNSでは、「いいね」をもらう数が写真の価値を決める。少なくともSNSという仕組みの持つ評価アルゴリズムの大前提である。これなど、まさに認められる写真の典型であろう。今までそういった写真を撮ってきた者たちは、今後どうするのだろうと心配になる。まあ、そうなったら写真以外の趣味を見付けるだけとは思うが。

ボクの場合、最初から他人の評価など気にせず自分の求めるものにこだわって写真を撮っている。人に認められる写真を撮る意図は全く無い。もちろん、一部の写真はSNSに掲載しているが、それはあくまでも「こういう撮り方をした写真がある」ということを世間に知らしめるための活動であって、かならずしも「いいね」をもらうためではない。

「人に認められる」ということは一種のマーケティングであり、世間の嗜好に合わせて自分が変わっていくことに他ならない。はたしてそれが自分自身の表現と言えるだろうか?他者にコントロールされた表現ではないのか?

ボクは、自分自身の中で知らないことが多くある。
文章を書いているうちに、自分自身という存在がどのように考えどのような価値観を持っているのかを知ることがある。
それと同様に、写真を撮っているうちに自分自身を知ることがある。それを探求するために表現を追求していく。

生成AI画像がボクの撮る写真と同じ画像を生成できるようになったとしても、それはあくまでも結果が同じということに過ぎない。
同じピクセルが出力されたとしても、それはボクがボク自身であることを知った結果であるなら、自分にとっては価値があるものなのだ。

さて最後に、生成AI画像が学習していなかったサツマイモの花の実写を下に掲載。

<サツマイモの花の実写>

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