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原田眞人監督『突入せよ!あさま山荘事件』

 1972年2月の事件について、2002年に映画化したもの。連合赤軍による人質立てこもり事件の経緯を警察側の視点から描いている。

 赤軍側の視点はほぼ完全にシャットダウンされているので、それが事件当時の不気味さ、立てこもる方が何を考えているのか分からない焦燥感のつのる雰囲気をうまく演出しているように感じた。もちろん、当時私は生まれていないが。

 警察側では、映画の原作を書いた現場指揮官が主人公となる。あさま山荘のある長野県の県警だけでは不慣れだろうからと、東京の上官に行ってこいと命令される。当初の方針では、東京の警視庁は長野県警に装備面だけ支援する流れだっただけに、長野の警察幹部たちは「東京もん」が派遣され、あれこれ口を出すことを激しく不愉快に感じる。今から半世紀前の日本の官僚組織はなるほどこういう縄張り意識やプライドが錯綜していたのかと勉強になる。

 電話交換はもちろん下っ端の女性がやることになっているし、主人公の妻も、玄関から出かける夫に膝をつきおじぎして見送る。やはりというべきか「あなた」呼びであり常に敬語で会話する。清々しいほどに男性支配社会である。そこでふと感じたのは、例えば今現在、同じような事件が起きたら、女性警官もまた、最前線で人質救助にあたるのだろうかということである。より正確にいえば、その種の映画を(歴史ものではなく)一本作るとして、日本人は「男は外で働き、女は内を支える」的な構図をごく素朴に描くだろうかと思う。

 この点で印象深いのは今のところ私の一番大好きなSF戦争映画である『スターシップ・トゥルーパーズ』が参考になる。物語の舞台は「アメリカがファシズム国家になった」ような世界であり、男女の兵士が同じシャワールームで身体を洗っている。全員、生理的な性欲はもちろんあるのだが、それはそれとして公的な生活空間では「弁えて」過ごすのである。公然と混浴が存在した江戸時代みたいな話だが、現代日本では流石にここまでジェンダー意識が平板化してはいないだろうから、やはりある程度の住み分けはあってほしいのが実情かもしれない。

 主人公ら東京組と地元組の激しくみにくい意地の張り合いが続く中、民間人や警官に死者が出る。映画では主に地元長野県警の自分勝手さが悪目立ちしており、主人公は四苦八苦する調停役のような立場にある。東京の上官から「何をやっとるんだ」と叱責をくらう場面もまた、檄を飛ばすだけで具体的には何ら手助けしてくれない上司の無責任ぶりをよく露呈しており、いい意味でとても不愉快だった。しかし主人公は一念発起して内輪もめに明け暮れる警察司令部をまとめ上げる。

 その後も混乱づくしの現場が続く。凄く印象的だったのは、あさま山荘に突入する決死隊をつくる際に、長野県警のトップは部下たちに死ねと言うようなものだと縮こまるのだが、長野県警の名も無い(名前は出るのだが、要は下っ端の)警官はあっさり志願する。「爆弾は怖くないのか」と一緒に走る恐らく同じ志願者に訊かれ、「怖いよ。でも、誰かがやらないといけない。だからおれでいいんだ。」と、あっけらかんと答える。今いる人質の代わりに人質になりたいと血気盛んに民間人から「人質志願者」が出てくるのだが、そういういっときの激情に駆られて「英雄志願者」を名乗り出る者より、職務として淡々と危険な任務に臨む者の方が、結果的にははるかに「英雄」だろうといえる。

 ついに最後、犯人たちを捕まえ、人質を助け出す直後、仲間たちを殺した憎き犯人を前に「私的制裁は絶対にするな」と厳しく命じる主人公のバランス感覚も非常に素晴らしかった。また、犯人連行の最前列を長野県警の血気盛んな若者たちに任せるのも、長野県警のプライドを重んじる意識が間違いなくあったと思う。

 総じておっさんたちが激しく怒鳴り合ったり自己主張する様がかなり醜悪な映画だったが、そんな中でも余計な感情を押し殺して公務にあたる警官たちはかっこよく感じた。ヘルメットや盾、防弾服が絶妙に頼りなくて終始はらはらした。ちなみにこの映画を警官側からしか描いてないと反発した人が別に作品を出したらしいが、私の登録している映画視聴サービスでは見れないので、いつか対比的に見てみたい。

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