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クリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』シリーズ(バットマン・ビギンズ編)

 アメコミのヒーロー「バットマン」を題材とした映画であり、大学生の時にドはまりして幾度となく見返したシリーズです。
 全三部作で、一作目の『バットマン・ビギンズ』(2005)、二作目で最も話題となった『ダークナイト』(2008)、最終作の『ダークナイト・ライジング』(2012)から構成されています。このシリーズの魅力について語ります。

主人公と敵は表裏一体の存在

 ゴッサムシティというアメリカのニューヨークをモチーフにしたであろう大都市の歴史的大企業の御曹司ブルースウェインが物語の主人公です。現実のアメリカさながらに貧富の格差が激しく、ブルースの両親は私財を投げ打って街の発展に尽力します。しかしブルースのある行動がきっかけで、路地裏で助けが入らない状況の中、困窮した暴漢に襲われ両親は銃殺されてしまいます。殺人犯チルへの復讐心を長年燃やしていたブルースですが、暗殺決行を決意したその瞬間に、チルの黒幕だったマフィア「ファルコ―ニ」の刺客が先にチルを始末します。
 貧しさゆえに犯罪に走るチルのような存在をダシに利権を貪ってきたファルコー二らマフィアにとって、慈善事業に力を入れるブルースの両親は厄介な存在でした。チルを鉄砲玉として利用し、用済みとして消したのだと思われます。ブルースはこの顛末を「正義が実行された」と幼馴染のレイチェルにこぼしますが、レイチェルは「復讐と正義は違う。復讐は自己満足のために過ぎない」と諭します。そしてファルコーニのような裏社会の黒幕は街の貧困と腐敗を深刻化させ、毎日「新しいチル」を生み出していると。この構造的な現実に手を加えない限り、ゴッサムの犯罪は撲滅できません。
 レイチェルは検事になることで司法の立場から正義の実現を目指します。ただし、ファルコーニは司法や警察をも買収しており、彼を逮捕することは合法的な規則に則った方法では極めて困難でした。
 ブルースはレイチェルとは対照的に、非合法的な手段で悪の根絶を目指すようになります。最初は犯罪世界の心理を学ぶために世界をあてもなく放浪していたのですが、中国の山奥で「影の同盟」という武装集団に出会い、常人を超えた肉体的・精神的な力を養います。同盟のリーダーであるラーズ・アル・グールはブルースの実質的な師匠ですが、犯罪者に対する考え方の違いから決裂します。ラーズは犯罪者に慈悲は不要であり、容赦なく抹殺するべきという立場。その根底には最愛の妻を殺されたことへの怒り、復讐心が宿っています。しかしブルースは復讐を動機とした戦いは自己満足に過ぎず司法による公平な裁きを望んでいます。(以前はラーズと同じ考えだったわけですが、レイチェルに説得されて考えを一部改めたわけです)
 しかし面白いのは、両者は「犯罪者は力づくで打倒する」という点では共通しているところです。ブルースはラーズの教えに自己流のアレンジを加えることで自らを黒ずつくめの戦闘服で武装した「バットマン」という超人的な存在としてアピールします。犯罪と腐敗が蔓延する中、状況に絶望して無関心を決め込む大多数の人びとを動かすには衝撃的な何かが必要だと彼は言います。悪を征伐する恐怖のシンボルとしてバットマンが犯罪者を公権力とは別に「勝手に」取り締まることで、犯罪者に好き勝手させないようにしようとするわけです。現実のアメリカ社会ではこういう存在を「自警団」と呼ぶようで、選挙で選ばれたわけでもなく勝手に武装して「私刑」を執行するので、もちろん警察の取り締まり対象となりますし、市民感情もあまりよろしくありません。
 ただ、バットマンはレイチェルの思想からも学んでいるので、自分が犯罪者をボコして終わりとはしません。前述のファルコーニをついにバットマン自身が討伐する時も、殺すわけではなく肉弾戦で部下ごと気絶させます。そして、ちょうど空にコウモリの影が浮かび上がるサーチライトにファルコーニをしばりつけて(ファルコーニの影がコウモリみたいに空に映る)、後の始末は警察に任せることになります。事前にバットマンは腐敗まみれのゴッサム警察の中で信用に足るゴードンという警官に接触し、協力を求めます。ゴードンも非合法的なバットマンの活動に即座に賛同するわけではありませんが、結果として犯罪の根源(ファルコーニ)を断ち切るために大きく貢献したバットマンを頼もしい味方として受け入れる柔軟性を持っています。(ゴードンも警察内部には味方がいない状況でした)
 バットマンは物語上の敵(ヴィラン)と表裏一体の存在なのですが、レイチェルという存在を通して、ゴッサムの一般市民の価値観と繋がりを保っていたように思われます。ブルースは、「バットマンはシンボルである」という考え方から、ブルース個人との繋がりを隠すよう努力します。ブルースは表向き、莫大な財産を好き放題に使うプレイボーイとして自分を演じます。日中はプレイボーイで、夜中はバットマン。物凄い二重生活ですが、執事のアルフレッドや、何よりレイチェルはほかならぬブルースウェインとしてゴッサムの犯罪に立ち向かってほしかったのだと感じ取れます。アルフレッドは死人を出しかねないバットマンの過激な活動を戒め「自分の内なる怪物のとりこです」と告げます。自己満足と公平な正義のバランスが前者に傾いていますよと言いたいのでしょう。レイチェルもまた、バットマンとしての姿こそがブルースの本質なのであると見抜き、自分の愛していた「ブルース」は戻ってこなかったと悟ります。それゆえいつかゴッサムがバットマンを必要としないほどに浄化されたら、お互い結ばれようという誓いを立てます。次回作の『ダークナイト』でレイチェルは、「しかしそんな日は訪れそうにない」ことも理解していました。復讐と正義のバランスで苦心しているように見えるブルースですが、根底では両親の死と「影の同盟」での修行によってFreak(怪物)の精神が刻印されてしまっているのでした。これを克服するためには、最終作『ダークナイト・ライジング』のラストを待たねばなりません。
 

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