電車1

天国に少しだけ近い町

私のおばあちゃんは、瀬戸内海近く、お山の上の病院に住んでいる。

おばあちゃんが住んでいる病院は、田舎のJRの駅から車で40分、ずーっと山を登ったところにあって、「死にに行く病院」と呼ばれて地元住民たちに嫌われている。

アクセスが悪く誰もお見舞いに来てくれないため、周りの友達が皆死んでしまったような高齢者しか入院しないからだ。
そして大抵、一度入るともう自宅には戻ってこない。
平地の病院が定員オーバーでこの病院に送られそうになっても、「○○病院にだけは絶対行きたくない、お願いします」と懇願する人もいるらしい。

この間、おばあちゃんの友達から母宛てに「平地は晴れていても、○○病院の付近は雪が降っていることがあります。車で行かれる際には、どうかお気をつけて」とLINEが来た。もはや笑えた。

私と家族は、年に数回、この病院にお見舞いに行く。
山陽新幹線の駅メロは山口百恵の「いい日旅立ち」で、私は山陽新幹線に乗るたび、なんでこんなに切なくて悲しいメロディが採用されてしまったんだろうと思う。


おばあちゃんは、悪いところなんてどこもないけれど入院している。

おばあちゃんは早くに夫を亡くし、息子は仕事で国内外を飛び回っているので、20年以上ずっと瀬戸内海に近い田舎で一人で暮らしていた。

ときどき体調が悪い時もありながらなんとか一人で暮らしていたおばあちゃんは、ある日ごみ捨てに行って、転んで骨を折って入院した。
ただ骨を折っただけだった。安静にしていればそのうち治るけがだった。
でもおばあちゃんは、もう一人ぽっちの家には戻りたくないと泣いた。

今は、病院の4人部屋で他のおばあちゃんたちと一緒に暮らしている。


病院には、死の気配と、それが際立たせる生の気配が充満している。
看護師さんのぱたぱたという足音。やたら大きいテレビの音。パジャマ姿で相撲と野球を見る人々。
みんな力が無くてドアが開けられないので、トイレのドアはカーテン一枚だ。みんな生きることに精いっぱいだから、誰もカーテン一枚向こうの排泄行為を気にしない。

「かなえちゃんかなえちゃん」と迎えてくれる祖母は、日によって元気そうだったり元気がなさそうだったり、少し太ったり痩せたりしている。
今日はとても元気そうで、体重は35kgだと教えてくれた。だいたいいつもそのくらい。身長は私と同じくらい、154cm。

おばあちゃんが元気なとき、私は「私のお肉ちょっと分けたげたいわぁ」と冗談を言う。


病院に行くと毎回「いつも家内がお世話になってます」と相部屋の一人ひとりにお菓子を持って挨拶に行く。
今回は、年末に髙島屋で買った福砂屋のカステラを差し入れた。

おばあちゃんの相部屋のなかで私が特に仲がいいのはカワモトさん(仮名)という96歳のおばあちゃんで、向こうもよく来る私のことを覚えていてくれている。私の顔を見るなり、「あんたに会いたかったんよ!」ってハグしてくれた。

カワモトさんはその可愛らしさと愛想のよさで、男性部屋のおじいちゃんたちから「ミス○○病院」と呼ばれている。
96歳だけど(初めて知ったとき、悪いと思いつつ思わず笑ってしまった)。

私の家族は高槻に住んでいるの、あんたらと近いじゃんね、とかそんな話をしながら、カワモトさんは30秒に一回くらい、「あんた本当に可愛いねえ」と言ってくれる。
これだけ書くと自慢してるみたいなので、以下のツイートも置いておこう。

母に「私、可愛いってさ」ってにやにや言うと、「きっと若い子みんなに言ってるんだよ」って言う。きっとそうだと思う。
20歳と少しの若造の私は、90歳を超えたおばあちゃんに、いったいどんな風に見えているんだろう。

「また来ますね」ってお別れを言うと、カワモトさんは必ず、「またすぐ来てね。もう、いつ死ぬかわからんけぇね!!」って冗談を言ってにこにこ笑う。
私はその冗談にどうしても上手く笑えないけど、この病院の人たちはこういうジョークを普段からよく言うみたいだった。

次この病院に来た時も、おばあちゃんやカワモトさんが変わらず元気であればいいなと、いつも思う。


私はもう、おばあちゃんが海抜0mのおうちに住んでいたころのことを、うまく思い出せない。

おばあちゃんのおうちは堤防に面していて、一歩外に出ると広い広い瀬戸内海が見渡せる。
庭には子がにの親子がよく歩いている。幼い頃から宮澤賢治のやまなしが大好きで、それを見るだけでおとぎ話の世界にやってきたみたいでわくわくした。

漁師町だから、近所の人が「つまらないものですが…」と生きたなまこやかにをおすそわけしてくれたりする。
生きたかになんて調理したことは一度もなかったけれど、Googleで調べながらあれやこれや試行錯誤していたら(その頃のおばあちゃんはもう台所に立てるような状態ではなかった)、思いっきりはさみで指を挟まれてけがをした。ぷくっと指に血が滲んだ。かにのはさみがこんなに強力だなんて、それまで知らなかった。
痛いなぁって思いながらも、そうだよね、ごめんね、だって抵抗しないと食べられちゃうんだもんね、と思った。
そのかにはかに鍋にして皆で食べたけど、最高に新鮮で、濃厚に海の薫りがした。今さっき私が殺したかにがこんなにおいしいなんて、全部残酷だと思った。


庭は大きくて、畑があって、どの季節も野菜から花から果樹まで、あらゆる植物が生きるみたいにはえていた。

毎年初夏、大量のえんどう豆が送られてきた。
お父さんが小学生のころ、豆ごはんを炊くと喜んでよく食べたので、えんどう豆が父の大好物として、おばあちゃんの中にインプットされているらしかった(そういうことってあるよね)。
あまりに大量で当時はちょっと困っていたけど、今思えばおばあちゃんの育てたえんどう豆で炊いた豆ごはんはいい感じにしょっぱくてなかなかおいしかった。
我が家の食卓に、もう豆ごはんは出ない。

冬に遊びに行くと、収穫したさつまいもを、アルミホイルでまいて灯油ストーブの上で焼きいもにしてくれた。
よく帰り際、「帰りの新幹線で食べんしゃい」と持たせてくれた。Uターンラッシュで混み合う新幹線の車内で、少し居心地の悪い思いをしながら食べた。
やっぱりそれも、今思えばすごくすごくおいしかった。冷めてもほくほくと甘かった。

私たちが何かの贈り物で枇杷(びわ)を送ったら、おいしかったから食べたあとの種を庭に撒いたと話してくれた。
普通そんなことする?って家族で笑ったけど、数年後、私たちはおばあちゃんに贈った数よりもっとたくさんの枇杷をもらうことになる。

おばあちゃんは、生き物を育てる天才だと思う。

父も、少し大人しくて話し下手だけど、やさしくて朗らかな人に育った。
娘の私がこういうことを言うのも、変な話だけれど。
父も祖母譲りで、植物を育てるのが好きだし上手。
3LDKの狭いマンションに、突然私より背の高い観葉植物の木を買ってきたりする。


おばあちゃんとは22年間、年に数回会って、一緒に楽しい時間を過ごしたはずなのに、私はもうそんな断片的なことしか思い出せないのだ。
かにがおいしかっただの豆がおいしかっただの芋がおいしかっただの、そういったどうでもいい類の。

だから書こうと筆をとった(キーボードを叩いた)。
この記事がいつか何年も経って、色んなことを思い出すことに役に立つんじゃないかと思った。

病院の談話室から見える鈍い青の海とか。
病院なのに思わず気がゆるむくらいおいしい食堂の定食と、いつもそこにいる気さくな店員のおじさんとか。
いつも帰りに寄る温泉から、まんまるにぽっかり浮かぶ夕日が見えることとか。

おばあちゃんが暮らしているこの一帯は、私たちが住んでいる場所より、たぶん、少しだけ天国に近いと思う。


そこは他の場所より少し生命力みたいなものが薄いから、私たちは生気を取り戻すみたいにして、お見舞いついでに必ず旅行をする。
今回は大久野島に行った。瀬戸内海にぽっかり浮かぶ、戦争と毒ガスの悲しい歴史をもつうさぎの楽園。


前回はちょっと足を伸ばして博多に行って、ひたすらラーメンと餃子ともつ鍋とあまおうスイーツを食べた。博多って楽しい、すっごく安くておいしいね。ちょうど「どんたく祭」をやっていて、たまたま来ていた氷川きよしに会った。

その前は、呉で大和ミュージアムに行って、「この世界の片隅に」の聖地を巡った。その前は、安芸の小京都と呼ばれる竹原の町を歩いて歴史を感じた。その前は、尾道の千光寺公園に行って、階段でくつろぐ猫とたわむれた。その前は、宮島にフェリーで渡って初詣をした。それが、一年前の話。

そんなに頻繁に家族旅行に行くなんて本当に家族仲が良いんだね、と言われることも多いけど、別に仲良いだけが理由じゃないよ、と思う。仲良いけどね。





私の、大好きなおばあちゃん。絶対に死なないで。
人間いつかは必ず死んでしまうなんて、そんなこと幼稚園の頃から知ってるけど、知らない。
いつまでもいつまでも長生きしてね。


今この文章は、病院と温泉帰り、もう誰も住んでいないおばあちゃんの家で、体をぽかぽかさせながら書いています。
この記事のために写真をたくさん撮ったのに、ものすごいタイミングで携帯が壊れて、ほとんどが無に帰しました。

温泉って最強だよね。私は元気です。


年始なのに個人的で、暗い話でごめんなさい。
あけましておめでとうございます。いつも読んでくれてありがとう。
この一年がみなさまにとって素晴らしい一年になりますように。
今年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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