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突然死モラトリアム

突然死について、個人的な経験を書く。

つきあっていた人が吐いて倒れて、もう意識は戻らないと言われて人工呼吸器を止めるまで、ずっとその場にいたのに、涙が出たのは翌日になってからだった。そばにいる人間さえ突然死を受け入れるのにこれだけ時間がかかるのに、本人なんかさっぱりわからなかったに違いない。

のんきな死に顔はいまでも忘れられない。魂を探すように少し開いた口はカチカチに固くて、現実感がまったくなかった。

こんなふうに突然、人生が終わる。彼を喪失したことと同じくらいショックだった。人はなんとなく寿命くらいまでは生きるのだろう、という盤石な人生観が足元から崩れ去り、空中に放り出された感じだった。実際、うまく歩けなかった。

様子がヤバかったらしく、代わる代わる友人が訪れ、泊りがけで監視してくれていた。仕事はしばらく休むことにした。友人の一人が「休む?どれくらい?」と聞くのでせいぜい2,3日だと言ったら「その仕事はそんなに価値があるのか」と言う。価値という概念もあやふやになっていた私は、「たしかに」と会社を辞めてしまった。

オーストラリアに渡って彼の葬式に出て、彼の家族や友人としばらく暮らし、その後はいろいろな友人を頼りにフランスやギリシャで3か月ほど過ごした。ミコノス島に家を借りて、出稼ぎの外国人たちと一緒に働いたり、猫を飼ったりした。詳しくは省略するけど、むちゃくちゃな3か月だった。

最初の一か月はどこにいても悪夢を生きているような心地だった。この夢はいつ覚めるのかと本気で思ったくらい。夜中目が覚めると「いまベルギー?ん?フランスか?」みたいな生活してたから、悪夢感は余計強かった。でも日本にいるよりマシだったはず。そこに彼だけいないという状態に耐えられなかったと思う。

ビザギリで日本に戻り、さてどうやって生きようかなあとバイトを探して、目についた脱毛サロンで働き始めた。ギャルのお姉さんたちが本当におかしくて、笑って過ごせた。まだ黎明期だった脱毛サロンに来るのは、真剣に体毛で悩む女の子ばかりだった。脚がきれいになると泣いて喜んでいた。それで仕事に喜びを感じた。立ち直れたかも、と思ったのはその頃だった。

近親者の突然死に際してとる行動としてはまあまあ最大限振り切ったモラトリアムを過ごしたけど、結果的には貴重な、奇妙な経験が残った。自分では選ばない国に呼ばれるままに赴き、その日隣合った人やペリカンと食事をして、先のことを何にも考えない日々。無理に笑おうとせず、思い出を作ろうともしなかった。ほんとにただ生きてた。

写真家の友達がギリシャに来て、その時の私の写真を撮ってくれた。痩せてて、あほみたいに日焼けしてて、フランス人美容師に切られたコシノジュンコ風おかっぱが痛々しい。お土産屋で買った紫色のふざけたサングラスをかけ、漁師がくれたロブスターを掲げている。なにもかもが、「あの日から分岐した私」の姿。魚拓みたいな写真だなと思った。

彼のことを考えることはものすごく減ったけど、何かを選択するとき、明日死ぬかもしれないしなあ、と思う癖はついた。自分が、家族が、友人がそうなる可能性は、低いけどゼロじゃない。それが事実なんだと知ることは、悲しいけど人生を豊かにしてくれるとも思う。そう思えるようになったのはだいぶ経ってからだけど。

亡くなった俳優の方のご冥福を祈るとともに、彼を好きだった方々も悲しみからいつかは立ち上がれるということ、つらいときは思い切ってその環境から逃げることも一つの生き方だということを知ってほしい。逃げてる間は何も生まなかったし、無駄な時間そのものだったけど、豊かな無駄でした。


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