後醍醐天皇と吉野

今回の主役は後醍醐天皇

一度は歴史の授業で耳にしたことがある後醍醐天皇。日本の歴代天皇の中でもとりわけ有名な人だと思う。なぜ有名になったのかは、歴史に残るほどの大ごとをやったからに他ならないが、まず初めになぜこの人が吉野という奈良の山奥の地に深い縁を持ったかを先に言っておこう。

それはずばり、天皇でありながら京都の花山院というお屋敷に軟禁され、天皇のしるしである三種の神器を奪われたあげく逃げた先が吉野山だったから、だ。

今の時代、天皇を軟禁するなんて考えられない。なぜ後醍醐天皇は天皇でありながら皇居からたたき出されて吉野に逃げてきたのか、いったい何をしたというのか!?波乱万丈だった後醍醐天皇、吉野はこの人抜きでは語れない歴史がありました。

世は鎌倉時代、武士が政治を仕切っていたころのお話

150年続いた鎌倉幕府も末期には御家人の不満が強くなり幕府の支持力が弱くなってきた。その頃天皇に即位したのが後醍醐天皇だ。鎌倉幕府を倒して政治を幕府から天皇中心に移そうと計画する。鎌倉幕府に不満を持ってた武士たちは後醍醐天皇に味方をして鎌倉幕府を滅ぼそうとします。楠木正成、足利尊氏といった武士が天皇に味方したが、2度の倒幕計画も幕府にバレて、謀反人とされ隠岐に島流しにされてしまう。

絶対にあきらめないのが後醍醐天皇、隠岐から脱出して幕府を倒すも…

謀反人にさせられて島流しにあっても、意地でもあきらめないのが後醍醐天皇。天皇政権にするまで何度でも立ち上がる。執念で隠岐から脱出した後醍醐天皇はついに鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治「建武の親政」が始まったのだ。満を持して立ち上がったかのように見えた親政は、実はあまり評判が良くなかった。せっかく一緒に倒幕をしようと味方についた足利尊氏に裏切られ天皇の証である三種の神器を尊氏に取られ、さらに花山院という屋敷に軟禁されてしまうのだ。三種の神器を持っていることが天皇の証なのだから、三種の神器がなければ天皇ではない!と後醍醐天皇は無理やり皇位を尊氏からはく奪されてしまったのだ。

吉野で南朝を開きゲリラ戦をを続けた後醍醐天皇

皇位をはく奪されて幽閉されてもへこたれないのが後醍醐天皇。這い上がり精神が半端ないのである。花山院からなんとか脱出を試み吉野に逃げ、吉野で南朝という新しい朝廷が開かれ、南朝の初代天皇に就任したのだ。方や、三種の神器を奪った尊氏は京都から後醍醐天皇を追い出して光明天皇をたてたのが北朝。日本の歴史で2つの朝廷が平行して存在する南北朝時代が始まったのだ。後醍醐天皇は吉野からなんとか京都に返り咲きたいとゲリラ的生活を送るが、吉野に来て2年、ついにその夢はかなわず57歳で崩御した。

なぜ吉野に逃げたのか?

吉野は山が深い。逃げたというと追手を逃れて山奥へ隠れたと想像しがちだが、実はそうではなく、何度でも這い上がる不屈の精神を持った後醍醐天皇が再度京都に復帰を図るにはもってこいの場所だったからかもしれない。吉野が単に山奥なのではなく、後醍醐天皇のずっと以前からそうとうな力を持った霊山だったからだ。

吉野の吉水神社は当時、南朝を開いた後醍醐天皇の皇居となっていた。小さいながらも豪華な内装が施された玉座が今でも残っている。

如意輪寺には、後醍醐天皇の御陵(お墓)がある。後醍醐天皇は亡くなる時、「玉骨はたとえ南山の苔に埋ずむる共魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」と言い残した。たとえ骨は吉野に埋葬されても、魂は常に北の京都奪還の執念を持ち続ける」という意味。とにかく京都でふたたび親政を行うことを夢見ていたのだ。天皇のお墓は南向きと決まっているのだが、後醍醐天皇の御陵だけは例外的に北(京都)を向いているのだ。何度島流しにあってもそのたびに復活を遂げてきた後醍醐天皇もついには吉野で生涯を終えたのだった。

次回は、後醍醐天皇が吉野を選んだのはなぜか?吉野は単なる山ではなく、大きな力を持った霊山だった歴史をさぐりたいと思います。


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