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奄美の黒糖と薩摩藩の事情(奄美大島取材日記2)

あ回は奄美大島を代表する特産品、黒糖と黒糖にまつわる政治的な背景をお話しします。

奄美といえば特産の黒糖

奄美大島は黒糖や黒糖焼酎で有名ですね。島を取材中、いたるところにサトウキビ畑。毎年1~3月頃に収穫され、獲った先から工場に運ばれ純黒糖や黒糖焼酎に加工されています。今は特産として奄美大島を大きく支えていますが、この黒糖が奄美の人々を苦しめた時代がありました。

江戸時代、奄美大島は琉球王国から薩摩藩の支配下に

奄美大島は現在鹿児島県に属します。さかのぼること江戸時代、1613年に薩摩藩の支配下になるまでは琉球王国に属していたのです。薩摩藩に属したことが島の生活を一変させることになりました。薩摩藩第9代当主、島津重豪が一代で築いた多額の借金(浪費家なうえに、西洋科学や天文台をたてるなどの開明思想が藩には散財にしかならなかったよう)を6兆円も抱えてしまったのだから薩摩藩の財政は一気に苦しくなる一方。どうにかしようと重い腰をあげて調所広郷を起用して財政政策に乗り出しました。ここで切り札となり目をつけたのが黒糖。藩最大の収入源で、当時とても高値で取引されていた黒糖を大量に取り立てたものだから、奄美大島の人たちは黒糖を作っても作っても搾取される一方だったのです。

舐めるだけでも罰則、黒糖地獄に陥った奄美大島

黒糖の価値は当時かなりのものでした。薩摩藩はなんとか財政を回復させようと、日本でこの黒糖を薩摩藩の専売とする政策をとったのです。いわゆる直販しかやらないことで利益をそのまま手に入れることができた。このため、奄美の島民は薩摩藩のために黒糖を作っていたようなもので、自分たちの生活は潤うどころかサトウキビの栽培に土地もすべてを奪われ、生活は本当に苦しかったといいます。少しサトウキビをなめるのを見つかっただけで厳重に罰せられました。奄美の人たちはこれを黒糖地獄と呼んでいます。この黒糖搾取のおかげで薩摩藩は急激に財政を盛り返し、10年で6兆あった借金をすべて返済し、さらに5年かけて3兆もの貯蓄に成功したといいます。そして現在のように島の特産品となったのはごくごく最近のこと。奄美の黒糖焼酎、今ではすっかり全国にもお馴染みですが、なんとこの焼酎が作られるようになったのはまだ50年くらいの歴史しかありません。明治維新の廃藩置県の後から徐々に奄美の生活になじんでいったのでしょう。

奄美一とも称される水間黒糖さんの幻の黒糖

黒糖のことを調べるうちに、黒糖はどうやって作るのか?を見せてもらうために龍郷町にある水間黒糖さんへ行ってきました。

作り方はいたってシンプル。サトウキビは収穫してから保存がきかないので、収穫した先から工場に毎朝運ばれてきます。このサトウキビの樹液をしぼってひたすら煮だしていく。水分が飛んで熱をとったら出来上がり、以上。ほんっとにシンプルなんですが、恐ろしいくらいに繊細で手間がかかってます。数時間ずっと釜と向き合い、火を調整して混ぜていくのです。このあんばいが絶妙で、片時も目を離せずに集中、集中…

焦げ付かない絶妙な堅さまで水分を飛ばし、撹拌させて熱をとってできあがり。この完全手作業で、混じりけのない純粋な黒糖は奄美一とも言われるほどです。

できたての黒糖のくずれた粉の部分をあつあつのお餅にかけて食べさせてくれました。奄美大島の自然のうまみがぎっしりつまった濃厚な甘さが、口に入れるとほろっとほどけて、くちいっぱいにひろがります。

美味しい黒糖はシンプルに召しあがれ

奄美の人は、お茶やコーヒーと一緒に一粒口に入れてお茶請けとして楽しむことが多いです。取材で色々な場所に行きますが、そのたびにテーブルには黒糖が!おすすめの食べ方をうかがったところ、ずばりそのままか黒蜜にしてシンプルにいただくのが一番だそう。黒蜜は黒糖と水を同量鍋に入れ中火で溶かし、沸騰したら弱火でとろみがついたらできあがり。プリンにかけてもお餅にかけても絶品です!ぜひお試しあれ。

次回は奄美大島の伝統工芸品、「鉄と大島紬」をお届けします!


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