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水木しげる『総員玉砕せよ!』(講談社文庫)

水木の戦争体験

映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)で水木しげるに興味を持った私だが、これまで彼の作品を1冊も読んだことがなかった。どのような漫画家なのかもよくわかっていない。手始めになにを読むか迷ったが、映画内で描かれていた主人公の従軍経験が印象に残っていたため、『総員玉砕せよ!』を選んだ。この作品は、水木しげる本人が兵士として赴いた戦地パプア・ニューギニアでの体験が元になった作品で、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』にもその影響があるのだという(宇多丸さんがラジオでおっしゃっていた*1)。通して読んでみて、映画との共通した部分を感じたのと同時に、本書が名作として読み継がれている理由がよくわかった。「なるほど、戦争に行くとはこのようなことなのか」「先の戦争はこれほど無意味だったのか」という独特のリアリティが、全体を貫いており忘れがたいのである。このような虚しい戦争に耐えられる者は誰もいないはずだ。

冒頭、ほんの数人の慰安婦しかいない小屋の前に、70人もの兵士が行列をなす強烈な場面から作品は始まる。慰安婦は翌日にはこの土地を去ることが決まっており、兵士ひとりにつき5分しか時間がないので性行為はできず、慰安婦が兵士に歌をうたってあげて終わるのだという。こうしたくだりに戦慄していると、続いて作品は、軍隊内に横行する暴力と、食糧不足による飢えの描写へと移行する。初年兵と呼ばれる新米兵士は毎日のように上官に殴られ、食べるものがなく、つねに飢えている。水木にとっての軍隊は、暴力と飢えだ。上官から殴られる場面は数え切れないほど繰り返される。殴る理由は説明されない。「暴力は無意味であればあるほどよい」という信条があるとしか思えず、上官はまるであいさつのように暴力をふるい、部下を殴り続ける。殴られ、飢え、また殴られ、さらに飢える場所としての戦場。兵士は身内からの暴力と、兵站の準備不足による飢えで士気が下がり切っており、戦争どころではない。わけても、爆撃を受けて逃げる場面で、隠しておいたバナナのありかを探すくだりのリアリティはみごとだった。どの場面にも、なんの合理性もなく、ただ理不尽な決定や命令だけがあり、兵士はただ黙ってそれに耐えるしかないのだ。

自分の所属する組織から、死刑を宣告される不条理

論理ではなく情緒

それでも戦争は、根拠を欠いた紋切り型の言葉で継続される。これが読んでいて実に腹立たしい。曰く「玉砕は死にがいがある」「君は俺といっしょに死ねないというのか」「軍人には死ぬ時期というものがある」「貴様それでも日本人か」「死に場所を得たい」。この漫画に出てくる軍人が口にする言葉はどれも非論理的で、ただ情緒だけがあるのだ。こうしただらしないセンチメンタルは、日本敗戦の原因を探った名著『失敗の本質』(中公文庫)を読んだ際にも感じた。多くの軍人が、いざという場面で論理をかなぐり捨て、ウェットな情緒のみで玉砕を強制する構図が、非常にグロテスクかつ幼稚に描かれているのが『総員玉砕せよ!』の特徴である。そしてそれは、いかにも日本的な失敗の構図なのだ。なぜ玉砕しなければいけないのか、その理由が論理では説明できない。死にがいがあるから、日本人だから、軍人には矜持が必要だから、とにかく死んでこいと言う。『総員玉砕せよ!』を読みながら、日本の特徴である、自己と他者の境界線があいまいで、他者は固有の存在であるという前提が抜け落ちてしまっている状態、その未成熟さと甘えを感じるほかなかった。

半藤一利『日本のいちばん長い日』(文春文庫)によると、敗戦間際の軍上層部は「2千万人に特攻させれば本土決戦に勝てる」と本気で口にしていたという。狂気の沙汰である。まずなにより、なぜ彼ら軍人は、自分たちに「2千万人に特攻させる命令」を出す権利があると信じ込んでいたのかが不思議でならない。海外の人びとが、特攻を「カミカゼ」と呼んで奇異に感じるのは、そのような傲慢な命令を思いつく精神性が理解しがたいからである。こうした異様さの背景には、日本人にとって「固有の存在としての個」がいまだ確立しておらず、「自己と他者の境界線があいまい」という精神性があると思われる。他者が、侵しがたい領域を有する固有の存在だとわかっていれば、そのような命令を思いつくはずがないのだが、日本人にはその前提が欠けている(かかる思想は、人を粗末に扱う習慣としてこんにちまで我が国に残っている)。いったいどこの誰が「総員玉砕せよ!」などと命令できるのか。水木の怒りの根源はそこにある。水木は、戦争体験を通して感じた無意味さの根底に、戦争を推進する者たちがふりかざす論理の幼稚さ、合理性のなさを見て取っているが、その視点は『失敗の本質』と同様の批評性を備えていると感じた。兵士は極限の無意味さ、虚無のなかで息絶える。そうした点が伝わりやすさと迫真をもって描かれるのが、本作のすばらしさではないだろうか。

*1 ラジオ番組の映画評にて。Podcastリンクは以下。

【名著です】

【伊藤の本も読んでくださいね】

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