学問をする

研究をしていると、自分が見つけられるコトがちっぽけすぎて、とても虚しくなる。また、最近では、俗物的な対人関係や上下関係、政治力学、事務手続きなど、虚しさに輪をかけることが非常に多いのではなかろうか(昔のことなど、私が知るわけはないが...)。なんというか、俗っぽい。

そこで、森博嗣『封印再度』の犀川助教授の思索より。

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手を出さない子供にお菓子を与えることができないように、教育を受けるという動詞はあっても、教育するという概念は単独では存在しえないのである。それに、教育には水が流れるような上下関係がある。しかし、学問にはそれがない。学問にあるのは、高さではない。到達できない、極めることのできない、寂しさの無限の広がりのようなものが、ただあるだけだ。学問には、教育という不躾な言葉とはまるで無関係な静寂さが必要であり、障害物のない広い見通しが不可欠なのである。小学校、中学校と同じように、大学と呼ばない理由は、そのためであろう。大学とは、教育を受けるのではなく、学問をするところではなかったのか?

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寂しさの無限の広がりは、感じる。しかし、静寂さと、広い見通しは、果たして、今のアカデミアにあるのだろうか。

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