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「ゴダール/革命の中絶」のための追記

「ゴダール/革命の中絶」というタイトルのエッセイを『ユリイカ』23年1月臨時増刊号「総特集ジャン=リュック・ゴダール1930-2022」に寄稿した。その註で『勝手にしやがれ』にちらりと登場する当時のアメリカ合衆国大統領アイゼンハウアーのパリ訪問のシーンに触れているのだが、記述が中途半端になってしまったのでここで補足しておく。できれば『ユリイカ』掲載の論考のあとにこの追記もお読みいただきたい。

その註でわたしはアイゼンハウアーがパリを訪問した日時が不明と書いた。原稿執筆時に入手できたゴダール関連の文献やWikipedia(英語版)その他を参照しただけで大した調査はしていないのだが、今でもやはりよくわからないのである。『勝手にしやがれ』あるいはアイゼンハウアーに関する専門的な文献を漁ればすぐに判明するのかもしれないが、それは他日を期するとして、現時点でわたしに推測できることを記しておく(以下、研究者には自明の内容かもしれないので、もし誤り等があればご教示願えると幸いです)。
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『勝手にしやがれ』は1959年夏、正確には8月17日から9月19日にかけてパリとマルセイユで撮影された。当然、アイゼンハウアーはこの期間にパリを訪問していたことになる。しかしアイゼンハウアーは同じく1959年の12月9日からインドをはじめアジア、アフリカ、ヨーロッパ各国を歴訪し、最後にフランスに訪れたことは記録で確認できる。つまり8月もしくは9月の訪問に次いでこの年2回目の訪仏になるわけだが、これは当時のフランスのド・ゴール大統領との親密な関係を窺わせるとみてよいだろう。とはいえ、政治家といえども大陸間を航空機で移動するのがまだ難しかったこの時代(1953年公開の『紳士は金髪がお好き』ではアメリカのオリンピック選手団が客船で大西洋を横断している)に、この頻度で大西洋を渡ってフランスを訪れるのはやや異様にも思える。では、なぜアイゼンハウアーはこの時期に2度もフランスを訪れたのか。

おそらくこれは、この年最大の国際外交的な事件であるソ連のフルシチョフ書記長の訪米とかかわりがある。米ソ間は冷戦の真っ只中だったが、フルシチョフ訪米によっていわゆる「平和共存」路線が進展した。しかし一方で連合軍の占領下にあったドイツ・ベルリンをめぐって東西の対立は厳しさを増していた。フルシチョフの訪米は9月15日。この日、ゴダールはまだパリで撮影していたはずだが、この重大な外交案件の直前にアイゼンハウアーはわざわざヨーロッパへ出立していたのだ。Wikipediaによると、アイゼンハウアーは8月26日、西ドイツの首都ボンに大統領専用機に採用された最新型のジェット旅客機Boeing VC-137(写真は同型機)で降り立っている(ただし途中アイスランドで給油)。つまりアイゼンハウアーがパリに立ち寄ったのは、このボン訪問の後と考えるのがもっとも蓋然性が高いように思われる。

以下はまったくの憶測になるが、アイゼンハウアーの西ドイツ訪問の目的は、まさにこの最新型の大統領専用機のお披露目のためだったのではないだろうか。つまりフルシチョフ訪米に先手を打って、ということである。1953年のスターリンの死後、冷戦は一時的に緩和されつつあったとはいえ、当然ながら両国の対立は続いていた。フルシチョフがアメリカへの飛行の際に乗ったのは、1957年に開発され、当時世界最大の旅客機といわれていたソ連製のTu-114だった。フルシチョフはこの巨大な飛行機に届くタラップがアメリカの飛行場にはなかった、と自慢していたらしい。これに対してアメリカは、プロペラ(ターボプロップエンジン)輸送機であるTu-114よりもいち早く最新ジェット旅客機で大西洋を横断することでメンツを保とうとしたのである。ド・ゴールとの会談もフルシチョフ訪米への準備の一環だったのだろう。ゴダールが撮影した歓迎パレードは、その裏にこうした政治的な駆け引きを秘めたスペクタクルな情景だった。

だが、フランスの映画倫理規程管理委員会は『勝手にしやがれ』を18歳未満入場禁止とし、さらにパレードのシークェンスの削除を要求する。映画で現職の国家元首・首相を写すことが「時宜を得ない」という理由によってである(アラン・ベルガラ『六〇年代ゴダール』奥村昭夫訳、筑摩書房、81頁)。もちろん『勝手にしやがれ』は一見すると政治とは無縁の犯罪映画と呼ばれるジャンルの娯楽作品にすぎない。しかしドキュメンタリーとフィクションの混同、そして政治家を撮影することそれ自体が政治的な領域に属する問題なのである。だからこそゴダールは「政治」をあらためて「映画」によって贖われなくてはならないのだ。この検閲とアウシュヴィッツの映像の「無」との関係はもっと厳密に検討しなくてはならないが、ひとまずここでは以上のような事実と推測を述べるにとどめる。これ以降、東西の緊張は1961年の「ベルリンの壁」の建設、そして翌62年の「キューバ危機」にいたり、核戦争の一歩手前という段階にまで高まっていく。ゴダールが映画監督として出発したのは、まさにこの東西冷戦がふたたび激化しつつあった時期であり、その痕跡が『勝手にしやがれ』には刻まれているのだ。