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「長生きしてね」のはき違い

長生きしてね、に省かれている言葉

よく
「長生きしてね」
「長生きせなあかんからな」
という言葉を耳にしませんか?

入院中のご家族や面会でのお話しだったり、病院や待合室での会話、近所やスーパーでも聞かれます。
私が看護師で看取り対話師だからかな?

保険外訪問看護についてはここに書いてみました

”元気で”長生き

はいいんですけど、何がなんでもというわけではないと思います。

時々、入院患者さんとご家族と担当ドクターとの話し合いに入る場面があります。その時に、80歳、90歳、時には100歳になっても「とにかく生きてもらいたい、そのためにはなんでもしてください」という方がいます。

しかし、なんでもというと、医療は体に負担がどうしてもかかるものです。治療には多かれ少なかれメリット、デメリットがあります。そして、あまりにも辛そうな時、ご家族は

「こんなはずじゃなかった・・・、こんなこと頼んでない」

と言われます。

もしくは、しんどそうな辛そうな状態の方に、

もっと頑張って

もう頑張れないですよ、ご高齢なのに・・・と思ってしまう

今日15歳となった、うちの大吉のことをXに投稿して、そういうコメントがきていて、ふと思ったことです。

最近暑いのでフローリングでごろごろしている大吉(15歳)

人生の大前提として

人はみな死ぬ、人生に終わりがくる。

これはどんなにお金持ちだろうが、社会に貢献しようが、そうなのです。
いつまでも永遠に生きている人、生き続けている人はいないのです。

なんとなく頭ではわかっているんだけど、いざ家族や大事な人が最後を迎えようとなると、受け入れがたくなってしまう。
そして医療の限界、というか身体の限界を求めてしまう。
どこかで線引きしないといけません

私のスリッパを枕にする大吉・・・

生命の限界を越えるようなことをしてはいけないのです。
たとえ医療がどこまで発展しようとも

なぜ身体の限界を求めてしまうのか

たぶんだけど、やりたいことをやっていない人生を生きている人は、親の死を受け入れられないのかな、と思います。

もちろん入院患者さんの家族のことを全て知ることはできないけど、自分の経験を踏まえるとそう感じます。
私も親が死んだときは、めちゃくちゃ泣いたし、(なんたって一人っ子で母親とずっと2人ぐらしだったし)その時の写真や日記をみると今でも泣きそう。今や唯一の家族の大吉まで死ぬなんてことになったら、と思うと勝手に涙出てきます。小さいパピー時代は、はちゃめちゃだったのが、今やおしっこも散歩で家を出るまでに我慢できない程、すっかりしょぼしょぼな大吉を見ては悲しいやら愛おしいやら、感情が忙しいです。でも最後の時はくる・・・

でも、母が亡くなる前から自分が本当に何をしたいのか、これからどうしたいのかを考え、少しずつだけど行動していた私。世間体を気にしてなかなか出れなかった公立病院を出て小さな訪問看護ステーションで働き始めていました。訪問看護というものをやってみたくて、おうちで過ごしている方に関わってみたくて、えいっと転職してみた。まぁ怒られるやら、後で聞いたらおじさん(母の兄)まで愚痴っていたらしい・・・でもあのまま病院にいたら、潰れそうな感覚があったから仕方ない

患者さんのご家族でも少ないけど、こんな考えの方がいました。
「もう十分です。もう身体の限界を超えています。十分に生きたから後悔ないと思います」とはっきりと思いを伝える方がいます。
医者は生命を助ける仕事だし、とくにあの命の危機を扱う場面ってその場がすごく重くて切迫感があり、その雰囲気に飲まれてしまう人もいます。
それに医者から「えっ?この治療をしなかったら死ぬんですよ?!」ってあたかも家族の判断が悪いみたいな捉え方をする人もいる。でもちゃんと伝えれる人もいます。

どう生き最後どうするか

よりよく生きれる人は、より良い最後を迎えれると思います。
そういう最後「よかったな」って思える関わりをしていきたいなと看取り対話師としては思います。

そんなことを15歳を迎えた大吉を見ながら感じました

枕じゃないのよ、それはルームシューズなのよ

今私はやりたいことをやれています
その1つがこれ
保険外訪問看護、看取り対話師

他にも企業さんへメディカル記事を書かせてもらったりもしています

在宅介護に適したレイアウト 

最後死ぬ時、「まぁよかったかな」って思えるように1日1日を大切にしたい思います

サポートはすべてがん介護のサポート活動にあてさせていただきます。 背中を押していただけると、嬉しいです