自己矛盾☆について

 今日自己矛盾☆を観た。要点と感想。

 クッキー☆の世界に誘い込んだあの道化は、他者からの注目の指標を追い求めるエコノミックアニマルとして描写される。インターネット上の創作界隈では、目に見える閲覧数やいいね数やフォロワー数が第一義的な指標として用いられがちであり、現実世界で人が貨幣を追い求めるがごとくに、人々はそうした数字を自らに帯びさせようとする。主人公と同様、彼もまた独自の創作によって数を稼ぐことに失敗した経歴があった。
 原理主義のレミリアは、親衛隊のような軍服を身にまとって自己を防衛しながら、排他主義に共鳴する仲間とともに養殖厨を凍結して回る。彼女の過去についてはあまり触れられないが、東方二次創作界隈でその排他性を発揮して問題を起こしたことが示唆されている。
 主人公は、両者とは異なる第三の道を行こうとした。確かに道化のように熱心に数字を追い求めてはいたが、クッキー☆にハマった三年の間これっぽっちもオリジナル作品を作っていなかった事実に直面したとき、過去の自分が消え去ることを自覚するほどには自分自身の創作に対する熱意がまだあった。また、レミリアのようにしりりを毛嫌いしていた一方で、排他主義のヴァンダリズムには一切共感を抱かなかった。
 「子供達を責めないで」を流しながらの演説は、閲覧数を伸ばすために自らの精神を二次創作に売る人々や、クッキー☆という空っぽの存在に自己同一性を見出してそこからはみ出るものは一切排除する人々を批判する。これは、他者の姿を映し出すものとして演出されるが、まさしく主人公自身がクッキー☆界隈で歩んできた道筋そのものである。またこの演説はクッキー☆を自己再生産を図るだけのものとして否定する一方で、オリジナル作品を新たな方向へ人々を導くものとして肯定するが、後者で生きる道を捨て前者の世界に身を投じたのは道化の教唆こそあれ彼女自身の選択だった。最終的に主人公は原理主義者によって凍結され、この界隈での人生を絶たれた。彼女は自己矛盾を人々に曝け出しながら散った。
 主人公はこのあとどういう道筋をたどったのか。私は楽観的な視座から、より広く深い創作の世界へと旅立っていったものと信じたい。なぜなら、あの演説は界隈への罵倒であったと同時に、自分自身を曝け出すことによる再生の契機だったと考えられるからだ。というのも、道化にも原理主義者にも加担しない時点で彼女の界隈での人生は絶たれていたも同然であり、最後にさんざん罵倒して清々しい気持ちで消えてしまいたかったというのもあるだろうが、その罵倒がすべて自分に帰ってくることは彼女自身重々承知していたものと思われるからだ。「子供達を責めないで」を選曲したことや、物語の展開から見てもそれは明らかだ。
 人は自分自身が何であるかを常に定義している。だから前近代の人々は祝祭を定期的に開いたし、現代人は差異化によってさらに別の何かになろうとしている。だが、今何をしでかしているかについては意識を向けられないことがよくある。だからこそ主人公は、紫の言葉を聞いて初めて、自分自身が他のク☆厨と「同じ穴のムジナ」であることに気が付いた。ク☆厨を本心では毛嫌いしていたにも関わらず。
 彼女は自己矛盾に気が付いた。それは、前述したことの繰り返しになるが、自らを創作者として位置づけながら、シミュラークルの再生産装置に成り下がっていたことであり、創作において自らの湧きあがる感覚に依拠しているように感じていながら、ク☆を自らのアイデンティティとして保持していたことである。
 しかし自己相克に直面しない創作家など存在するだろうか。彼女は最初から、自分自身の創作をしたい気持ちとちやほやされたい気持ちの板挟みにあった。ク☆での三年間は自らの自己矛盾を嫌というほどわからせたのではないか。
 アポロン的なものの中にディオニュソス的なものがうごめく心の感覚。彼女はきっとその記憶を一生忘れないだろう。だからきっと、彼女はどこまでも広がる創作の星の海へ旅立っていったはずだ。

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