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フランシス・ハー:不器用な私的人生の学び方


他人の目を気にすることなく、真っ直ぐに育ってしまった、もういい大人のはずのフランシス。

「あなたは、何がしたいの?」「自分の心に従って生きるのが一番よ。」と、自発性を大切にするアメリカで育った、特別才能があるわけではない、まぁまぁ普通な主人公が同世代と比べて遅れて経験する、ほろ苦い日常的な現実が描かれている。

他人からの評価は気にせず、自分が好きなことを中心に素直に育った彼女の心の中にあるのは、100%の濃縮度で大好きなダンスと親友のソフィーの2つだけ。恋人と別れる時もあっさり、男性からのロマンチックな視線も意に介さない。しまいには「非モテ」呼ばわりされても、そのことに対して自虐的になることもなく、落ち込むこともなく「あら、そう。」と、ばかりの無関心な態度。

無条件な愛を親から一心に受けて育ったからこそ、良くも悪くも周りの目を気にしない大人になってしまった。そんな主人公を変えるのは、大好きなダンスと親友ソフィーとの関係だけ。自分の思いの強さと同じだけの濃度で物事が展開しない現実に、葛藤したり、空回りしつつも、やっと主観だけではない他者(=世間)とのよい距離感を掴んでいく主人公のフランシス。人生は1か0かの世界じゃない。その間に存在する愛の受け止め方を体当たりで獲得していく主人公の不器用さに愛おしささえも感じてくる。

特段派手な出来事は起こらないが、主人公の生活の歯車を少しづつずれていく展開でストーリーが進んでいく。他人から見れば至るところでずれが露呈しているのだけど、彼女を苦しめるのは、ダンスと親友ソフィーとの関係だけだ。

一緒に暮らしていた親友が自分を置いて他の人と暮らし始めたり、恋人と外国に移り住んでしまったりと、親友との距離が広がっていく現実にどんどん寂しい思いを深めていく主人公。そんなある日、偶然にも親友と再会する。そこで初めて親友が心の奥に秘めていた葛藤に触れ、そして、いつもは冷静でクールな彼女が自暴自棄になり、ボロボロの姿で自分に頼ってくる。お互いの傷を舐め合うかのように一緒にベットで寝る二人は、フランシスが嬉しそうに何度か呟いていた「私たちって、熟練のレズビアンカップル見たいね。」そのものだった。この上なく甘美な表情でフランシスは酔いつぶれた親友を見つめている。そして翌朝。酔いから覚めた親友は、寝てる主人公を置いて、現実の世界に戻っていってしまう。その後ろ姿を靴も履かずに裸足のまま追いかけるが、追いつかない。そこで自分の汚れた足を見つめて、やっとフランシスは理解するのだった。

「100%の愛じゃなきゃ、愛じゃない」と言わんばかりの無邪気なフランシスが、現実的に生きることを学んでいく。例え60%でも愛は愛として存在している。そのことを受け止めた上で再び真っ直ぐ力強く生きる道を、不器用ながらも再び走りだす。ちょっぴり大人になったけど、持ち前の天真爛漫さは失わないフランシスの明るい笑顔で映画の幕が閉じていく。

大きな不幸もなく、かと言って何者かになれるわけではない。一見すると能天気で一人ハッピーランドに浮遊しているかのように生きている、大人になりきれない若者たちの共感されにくい日常的な葛藤がこの映画では丁寧に描かれている。

差し迫った危機感を感じずに生きれる幸せなはずの大都会の生活なのに、なんとなくシックリいかない。相対的には恵まれている人たちのどこにぶつけていいのかわからない日常にまとまりついてくる不満の塊たち。

映画では、ロマンチシズムから卒業して現実的な人生の愛し方を模索することで、再び主人公のフランシスは、明るさが取り戻されていく。劇的なドラマが起こるわけじゃないんだけど、見終わると静かだけど爽やかな気持ちよさを与えてくれる。

「100%の自分じゃない方がより個性的かもしれない。」

そんな風にも思えるエンディングに最後はニンマリせざるえなくなる。



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