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頑張ることをやめた

こんにちは。頑張っていますか?
突然ですが、私は最近頑張ることをやめました。理由はシンプルで、疲れたからです。血気盛んな6年前の私は、「何者かになりたいぞ」という粗野な志をもって、「何者」かになるため齷齪頑張っていたのですが、最近は、「何者でもないこと」に安心感を覚えるようになりました。あえて、自分を何者化するのであれば「何者でもないことを受け入れた者」です。社会にはたくさんの何者かがいます。彼らが何かしらして、頑張ってくださってるので、自分は力むことはなく、流れに沿って生活していればよいのだ。と思っています。

力まない自然たち。

ただ、6年前「何者かになりたい」という志を持って、ここまで頑張って来てよかったな。と思っています。何者かになるためには、何者かになるための努力が必要で、それ相応の勉強をしたり、価値を生み出したり、課題解決をすることが求められます。こういった一連の流れ、インプット・アウトプットなくして、現在の「何者でもないことを受け入れた者」にはなれなかったと思うのです。
そして今思うのは、「何者」という言葉を用いて、なりたい対象の抽象度を高くすることで、「何者」かになることから逃げ続けて来たということです。例えば、「何者」という対象を、「ケーキ屋さん」とわかりやすく設定すれば、製菓学校行くなり、ケーキ屋さんでバイトするなり、「ケーキ屋さん」になるためのさまざまな手段を実行して、「ケーキ屋さん」を目指していくのが順当な流れだと思います。

ケーキを食べることは頑張りたい。

私はこれまで、なりたい対象についてわかりやすい言葉を用いて、説明・定義することを避け続けて来ました。それは、確固たる意志のもとではなく、なんとなく決めつけてしまったら、なりたい対象以外の情報を捨象してしまうのではないか。そうしたら、世界がとんでもなく自分都合で出来上がってしまうんじゃないだろうか。と恐れていたからです。なので、「何者」が何なのか、意図的に言語化しないまま、心が動く方へと成り行きで生きて来ました。
成り行きというものは不思議なことで、本当にどうにかなるんですよね。ただ、成り行きだけではなく、ほどほどに手入れもします。「あ、今この方向じゃないな」と本能的に感じたときは、その直感を大切にし、呼吸がしづらい場所からは距離を置いたり、価値がよくわからない大きな買い物はしないようにします。手入れで大切にしていることは、基礎となる部分には丁寧に手をかけることです。基礎さえしっかりしていれば、成り行きに任せたとて、大体のことがどうにかなるだろう、と思っています。成り行きと、流されやすいというのは、似ているようで、どこか違っています。容易く壊れない基礎があってこそ、成り行きに任せることができるのではないか。そんなことを思って、基礎部分に手をかけて育てている最中です。
こんな感じで、頑張ることをやめた何者でもない自分は、今日も明日も成り行きで、時々手入れをしながら、パンを育てる感覚で生活していこうかな、という次第です。ただ今後、どうしても「頑張りたいぞ」という局面が来たら、そのときは頑張ってみようと思います。
終わり。

6年前のブログでも似たようなことを言っていたので、実はそこまで頑張っていなかったのかもしれない。

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