見出し画像

堂々と手を抜く

年が明けた。
正確には年が明けてから二ヶ月弱経とうとしている。毎年、年が明けて抱く感想は、「新年側も毎年、新年を繰り返していてすごいな」である。一年くらい、新年さぼりたくならないんだろうか。こと私に関しては、何もかも中途半端、継続していることは呼吸と毎朝の歯磨きくらいの人間である。新年の爪の垢を煎じて飲ませていただきたいくらいだ。
今年は辰年の2024年らしい。自宅リビングのカレンダーは2023年11月のまま、書斎のカレンダーは2022年9月のままである。私の家だけ新年の供給がストップされている状態なので、最新の日付はGoogleカレンダーで確認し、公共の場で2024年を実感することとなる。こんな人間にも、毎年律儀に新年がやってくるから、新年は頭が上がらない。
具体的な例は省くが、最近堂々と手を抜くようになった。義務教育時代、長期休暇の宿題というものを提出したことがない。いよいよ職員室からの呼び出しがなくなり、幼心に先生の諦めを察していた。このように、怠惰の塊が服を着て歩いているような小・中学生時代だったが(内申書を気にするようになり中学二年生以降はきちんと提出し始めた)、社会人枠に入り、米粒大の責任感を抱くようになってから、若干の「こうでなければならない」完璧主義者モードに片足を突っ込むようになった。納期は守るし、タスク管理はするし、メールの文頭には「いつもお世話になっております」という定型句を添えられるサラリーマンになった。憂うべきことではなく、親族からしたら奇跡のような出来事で、「ようやく一人前になれたね。」と拍手喝采が送られるはずだが、当の私は「なんかこれじゃない感」を常に抱きながらサラリーマン仮面を被って生活していた。
そもそも、人間はいろんな自分を持って社会生活を送っているのではないだろうか。仕事しているときの自分、パンを焼いているときの自分、好きな人といるときの自分、家族といるときの自分、など数えたらきりがないほどに「いろんな自分」を持っているはずで、無意識レベルで数多ある自分を演じ分けているのだと思う。自分のベースは変わらないが、環境や立場によって多少の使い分けが必要となり、性格も成長するに伴って変化している気がする。一方で、自分のベースから飛躍しすぎている自分を演じることは、長続きしない。恥ずかしい話だが、宿題を提出せずとも楽観的に過ごせていた幼少時代の自分が根っこにいるので、完璧主義者でしっかりした自分は、なかなかしんどくなってきたという訳である。
素性は、自宅のカレンダーすら更新するのが億劫、起床後に洗顔して化粧水を塗ったら一日のエネルギー8割使い果たしたような達成感を得る人間なのだ。以上のことから、本年は取り繕った完璧主義者な自分を緩め、堂々と手を抜いて生活していこうと思う。
終わり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?