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『Sakura1967』にて。

 私は朝食を家で摂らない。理由は特にない。中年独身男の不摂生ということではない。我ながら規則正しい暮らしをしている自負はある。

 今朝も5時起床。白湯(さゆ)をカップに一杯飲み、胃を温め、身体中の細胞をじんわり目覚めさせ、ざっくりと新聞に眼を通す。

 髭だけ軽く剃って、身づくろいし、携帯電話とiPodと財布とキャップを手に表通りへ。毎日2kmの超短距離ラン。これでも走り続けると意外に体力温存に効果あり、侮れない。継続は力なりとはよく言ったものだ。

 自分で決めたゴール近くの小さな橋を渡る。先日の強風ですっかり散った桜の茎が道ばたに散乱している。遠目に見ると、さながらマラソン大会でスタートを切った走り始めの群れのよう。——なぜ桜の茎でそんなことを思い浮かべるんだ自分。不意に可笑しくなって小さく吹き出す。



 軽ランのあとは、その足で最寄りのファミリーレストランへ入りモーニングセットを頂く。これもほぼ毎日のこと。そう、家で朝ごはんを食べないのは、この軽ランを始めたことも大きい。ということを、いま思い出した。

 少し高台に築かれたこのファミリーレストランの窓ぎわ席から海が見える。手前には小さな喫茶店と、寄り添って植わる桜の木が数本、眺められる。私のお気に入りの席だ。もちろん今朝も窓際席に座る。

 午前6時45分すぎ。早起きには少し遅く、寝坊族には朝早いこの時間帯に、ここを訪れる人はまばらだ。
 住宅街のはずれで朝食を外で摂る方が珍しい。客といえば、近隣の大学に通っているらしい学生が数名。これといって娯楽施設の無い地域。夜通しここで時間をつぶしたようなダラケ感を漂わせている。

 「待ち合わせは13時に『Sakura1967』で」

 モーニングセットをオーダーした直後、1通のメール着信に気がついた。送り主は、十数年以上の付き合いになる女友だち——と言っておこう。

 『Sakura1967』とは、なに隠そう(隠してはいないが)今ここから見える桜の木のそばの小さな喫茶店のことだ。彼女は、いま私が朝食を食べているファミレスは知らないが、『Sakura1967』のことは前から知っていて、彼女のお気に入りの店でもあった。

 *

 彼女との関係を話すことには少々抵抗がある。まず年齢が離れている。私は46。彼女は今年の春——あと数日後に28歳になる。いわゆる男女の関係としたら、この年差は微妙でしょ。

 とにかく。13時に『Sakura1967』に行くことになった。私はモーニングのパンケーキの最後のかけらを口に放り込んでコーヒーで流した。

 帰宅後シャワーを浴び、今度はいつものスーツに身をつつみ、出勤。行き先は、徒歩十分の自前の事務所。
 スケジュールを再確認した後、昼まで事務作業に勤しんだ。午後は彼女に会う以外の予定が、まるで図ったかのように入っていない。

 午後12時30分。事務所を出る。向かうは喫茶店『Sakura1967』。封をした茶封筒をカバンに入れて出かける。

 到着した時、彼女はすでに着いてランチを食べていた。「Sakura日替わりランチ」。昔ながらのナポリタン・スパゲッティにポテトサラダとスープ、ドリンク。そして、店主お手製お新香付き。消費税込みで920円なり。妥当なお値段か。

 彼女は私に気づくと、軽く瞬きをした。カールしたまつ毛の奥の瞳は、いつ見ても魅力的だ。この人はいつも、この眼差しで何人もの男性を魅了してきたのだろう。それ以外に際立つところは見当たらない(失礼)。

 私は挨拶がわりに右手を軽くあげて合図する。

 「持ってきてくれた?」
 グラスの水をひと飲みした後、低めのトーンでぼそりと言い放った。彼女のいつものしゃべり方だ。

 「ああ。持ってきた」
 私は応え、テーブルの上に茶封筒を静かに置きながらある物語の一節を思い出す。

 「年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり」

 詠ったのは、『老妓抄』岡本かの子だったか——。

 いま目の前でナポリタンを食する女性の名は「かの子」。彼女の母親の父つまり祖父が「岡本かの子」好きで、母親である娘の意をよそに、この名を当てるよう話をまとめた。

 「かの子」は、岡本かの子ほど奔放ではないものの、若さの割に憂いと艶とユーモアも重ね持つアクティブな女性だった。そんなわけで、会うたびに岡本かの子の詠んだ詩が過るのである。



 「かの子」と初めて会ったのは、この店から見える桜が見ごろの時節だったと記憶している。

 当時かの子は12歳。母親に腕を引かれてやってきて、一人ブツブツつぶやきながら時間を過ごしていた。
 それは、大人二人の会話に“合いの手”のように小さく響き、不思議な心地よさを感じさせた。そう、さっき「持ってきてくれた?」と聞いてきた時と同じ波長の、ボソボソとこもった声。

 かの子の母親は、恋愛関係にあった男からプロポーズされ、一緒になるか決めかねていた。理由はひとつ。“連れ子”となる「かの子」が婚外子——俗に言う“私生児”の扱いを受けていて、男の家族つまり義理の親になるかもしれない人に理解してもらえるのかという不安を抱えていたからだった。

 相手の男は、実は僕がかつて勤務していた事務所の先輩だった。そんな僕のところに彼女が相談にやってきたのは、かつて彼女と恋仲で身近にあったことと、僕が「かの子」と血の繋がった父親を知っている唯一の人間という、ヤヤコシイ理由が影響していたらしい。

 先輩と彼女の関係を知ったとき、僕や「かの子」の実父を含め、誰がどう繋がっているのか、たびたび混乱した。先輩は、過去に僕が彼女と男女関係にあったことは知らない、はずだ。

 *

 今日ここで、彼女の子である「かの子」と私が対面している理由は何か。

 昨年、ここ『Sakura1967』に来るように、かの子から呼び出されたことから話は始まる。相談したいことがあるのだと珍しく急き立てるように電話してきたのだ。

 かの子の母親は1年ほど前から入院している。かの子は、父親つまり私の先輩と二人暮らしになり、関係がうまくいっておらず、家を出たいと言い始めていた。ところが父親はそれを許さず、せめて母親が退院してからにしてくれと懇願してきたらしい。

 この父親は一人になるのが嫌なのだ。長らく「妻」に負んぶに抱っこで自分の身の回りのことすら人任せ。かの子は、物心つく頃にやってきた血の繋がらない“父親”をいよいよ見切りたかった。そこで私にアイディアを求めてきたのだった。

 私は、可愛がってもらった先輩に対して裏工作みたいなことに加担する気の重い役目を引き受けてしまった。それは他でもない、この「娘」の不思議な魅力に引っぱられたとしか言いようがない。

 *

 かの子の夢は、小さな雑貨屋を営むことだった。個人輸入や雑貨屋での務めを積み、独立に向けて動き出していた。その店舗となる物件の契約をするにあたり、若い彼女は私に保証人を頼んできたのだった。

 最初に聞いた時はさすがに気が向かず、なぜ他人の私が保証人にならねばならんのだと得体の知れない吐き気に襲われたものだ。しかし、今後のプランが確実に進むことをたびたび説明され根負けし、意を決して保証人となることにした。

 それにしても私たちの関係は一体なんなのだ。切るに切れない腐れ縁?

 依頼され捺印した書類が入れてある茶封筒を渡す。
 かの子は、中身を出して目を通す。印と署名をキラキラした瞳で見つめる。私は、その瞳を見つめる。と、不意に彼女の眉間にシワが寄った。

 「あれ? 桜井って漢字、難しい方の『櫻』だったんだね——」
 驚きがまったく伝わらないほどのボソボソ声でつぶやく。



 かの子は、何かを思い出したような眼差しで窓越しの桜を見る。

 「そういえば、ママの旧姓『櫻野』だったね。櫻井さんと一緒になってたら、そんなに違和感なかったかもね〜。わたしは『櫻井かの子』になってたかもしれないんだよね?」

 ——なんだって?!

 急に喉の奥が痛みを持ち、声が詰まった。彼女は、自分の母親が、いま目の前にいる男——つまり私と過去に恋愛関係にあったということをどこで知ったのか。ごまかしたところで、この「娘」はお見通しだろう。

 「なんで知ってるんだよー!」

 「えー。昔、わたしが初めて櫻井さんに会った日、ママが『かの子ちゃん、ママね、好きな人がいるの。一緒に暮らせたらなぁって思っててね。かの子ちゃん、仲良くなれるか観察してくれる?』とか言っちゃって——」

 長いまつ毛の奥の黒目がキラリと輝いた。

 「わたし、ママの笑顔が嬉しくて、楽しみにしてたの。そしたら櫻井さん『俺じゃ無理だろー』って言いたげな顔つきで、逃げ腰だったのよ」
 「こりゃダメだと思って、もう1人の“おじさん”の方が良いって思わずママに言っちゃったのよ」
 「……ああ! これ初めて告白したかも!あはは、ごめん、櫻井さ〜ん」

 かの子は珍しく通る声で早口でしゃべった。

 私の喉の痛みが、かゆみに変わり、やがて妙な安堵が起きた。
 ——これからもこの関係は続くんだなぁ。この子が稼げるようになったらメシをおごってもらおう。「Sakuraスペシャルディナー」。

 目の前で穏やかに笑うかの子の未来を感じながら、私も初めてくらいに声を上げて笑った。

〔了〕


※注:以下は本文に入らない補足です。
・この作品は、「桜・さくら・サクラ・Sakura2015」にて購読者のみに公開した過去作の一部を加筆・修正・再編したものです。