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ポリティカル・コレクトネスと夏の思い出。

今日は体調悪くて会社を休んでいる。なのにnoteを書いている。まあよくあること。

弱いものに寄り添う。

今の会社での悩みは、同じ契約社員でありながらやる気もスキルも能力もない同僚をどうやってうまく使うか、である。
人を「使う」なんて表現正しくない! ってポリコレ警察が出動しそうだが、どうでもいい。
人は使うものだ。道具と同じように、お金と同じように。世界の中で人間だけを特別扱いしようという思想そのものが傲慢である。(決まった。)

で、その同僚に話を戻すが、彼女は週4のパートタイムママ。しかし弊社においてはパートだろうがフルだろうが社員でなければ等しく契約社員なので、フルタイムの私と同じ立場である。
だが彼女はやる気がない。と感じる。自分から何か仕事を探すということをしない。入力作業で説明して「はい」と返事しても全然「はい」じゃない、わかって入力してない。その割に細かいことを気にする(けどそれは質問されて答えても入力内容には反映されていない)。気が散りやすい。作業が遅い。もう少しスピードアップしてね、と言っても全くスピードアップしない。
だから、とてもじゃないが社員について業務を持つなんてことはさせられない。

馬鹿とはさみは使いよう。またポリコレ警察が飛んできそうだが無視して、要するに、使えない人間というのは使う側の人間の問題である。
それが、現在の日本において徐々に多数派となりつつある考え方であるように思う。

弱いものに寄り添う。
それが、今の私の大きなストレスになっている。

ところで、夏の思い出。

高校の部活は、合唱部だったのだが、その思想と真逆だった。
後で、「エンターテイメントは差別で出来ている」といった記事を書こうと思っているのだけど(めっちゃ熟成下書き)、合唱や音楽は芸術であり、エンターテイメントにも通じるからなのか、やっぱり非常に差別的で、しばき上げで、北朝鮮みたいな部活だった。

毎日部活。先輩には敬語。先生には絶対。音程を揃える。音楽だけでなく歩き方も厳しく指導された。今考えても北朝鮮のマスゲームそのものだったと思う。
太っている子はドレス着れないし見た目が悪いから痩せろと言われた。痩せられなかった子は演奏会に出られなかった。
つまり、劣ったものは置いてけぼりにされていたわけ。

私はソプラノのエースだった(自分で言うなや)。部長だったような記憶もある。
あの夏、飛騨高山かどっかに遠征に行ったはずだ。
昼間は学校で演奏。夜はホールでコンサート。そういうスケジュールだったと思う。

で。昼間の学校での演奏、メイン曲で、ソプラノの上が決めなきゃお話にならないラスト部分を出そびれた。
ソプラノの上は私以外にもいたが、私が出なかったためみんなびびって出なかったようだった。

今考えるとあれは喉の調子が悪かったとかじゃない。先生の指揮を見間違えただけなのである。
が、結局、夜のホールでのコンサートでそのメイン曲はやらないこととなってしまった。

先生に、次はいけます、ってちゃんと訴えれば良かったんだろうか?
先生が絶対の部活だったからなのか、それを私はしなかった。
諦めたのだ。

歌いたかった。
歌うのが好きというその一心だけが、あの北朝鮮を乗り越えさせてくれた。

それは、青春なのか?
ほろ苦い、夏の思い出。

正しいって、何?

正しいって何なのか、今の私にはわからない。
北朝鮮部活が正しいとは思わない。
でも、弱いものに寄り添っている、寄り添わざるを得ない今の仕事での葛藤も辛い。

書きながら、ふと見えてきた答えがある。
それは、正しいことが重要なのではなく、幸せなことが重要なのだ、ってことだ。
今の私は仕事において幸せか?
首肯できかねるものがある。

できない人に丁寧に教えなさい。
お年寄りに優しくしなさい。
女性を優遇しなさい。
障害者に配慮しなさい。

「弱者に寄り添う」ことが、今の私の能力を超えてしまっているように思える。
ということは、私も能力がないという弱者なのか?

ポリティカル・コレクトネス、正しさという武器が、私の足を貫いて動けなくしている。

あなたの気持ちが、巡り巡ってやがてあなたの元へと還りますように。