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ゆっくりと癒着を剥がしていく。

私は息子を幼稚園へ送り出して、帰りの車の中でふと核心に近いような問いだったり、今後のきっかけになるようなことがポンと頭に浮かんでくる。

運転しているので、そちらに集中もしているので口に出して耳から改めて聞くことで覚えておくようにしている。

けれど、帰ると出かける前に息子が遊んでいたブロックを片付けたり、朝食を取り、その日のto doを頭の中で組み立てたりしていると、もう家事モードになり、忘れてしまったり、また時間が出来たら…と後回しにしてしまう。

今日は忘れたくないと思い、ここにメモする。

まず、最近自分が心から笑っていない。
ワクワクすること、心動くことが少ない。
それはそれで静の時間のようで良かった。

以前のような動の時間が良かったかというと、それはそれで疲れた。持続するにはかなりのエネルギーが必要だ。

さて。

私はどうしたい。
この問いは折に触れて自分にしていた。

そしてよく妻でも、母でもない自分だったら、いわゆるなにものでもない私だったら…と考えるけれどなかなか切り離せない。

それがどうしてだろうと思った時、送っていく途中に息子が私に向けた笑顔を思い出した。

すると強烈にそれを失いたくない!と思った。

今、思春期で反抗期の小6の娘も同じような笑顔を私に向けてくれていたけど、今はもうそれと同じものは見れない。

だからいつか来るかもしれない息子のその時期を先回りして恐怖に思い、そこにしがみついていたことに気がついた。

けれど、ふと立ち止まると、娘も息子も、そして夫も、なんなら今住んでいる一戸建てに暮らす生活も、後から得たものだ。

得たからこそ、もう手放してなるものか!関係が悪くなったのなら元に戻さなければ!と躍起になっていたということも。

そして後から私に付随したものなのに、いつのまにか一体化していた。

この癒着ともいえるものを、少しずつでも丁寧に私から剥がしていこうと決めた。

ありのまま。
なにものでもない。

など最近はこのワードが私の周りをウロウロしているが、ここに気がついたことはなんだか久しぶりにウキッとしたのだ。

このことは家族や、親しい友人達との関係性もまた健全なものになるような気がしている。

そして静の時間も動の時間も、どちらでも私の心が機能していくと信じて。

先日焼いた天然酵母パン。
カクカクの角食パン。
副鼻腔炎が落ち着いたら、
またパンを焼きたい。

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