ありのままなのにLet it goできない。
起きて、ぐーっと伸びをした。
そんな朝を迎えるのは久しぶりだ。
私の左隣は息子が寝ている。可愛い寝顔。
その反対の右隣には娘と夫。
今朝は夫の寝顔すらにくにくしいと思った。
私は根に持つほうだ。
だから昨日の牛乳事件やTシャツ事件は尾を引いている。
昨夜は予告通り私は早々と寝室に向かい、夫と顔を合わさなかった。
それで済まないのが私の性格だ。
この根に持つこと。
気分の切り替えが遅いこと。
など他にも、こういう一般的には直した方がいいと思われる性格を自覚はしていたけれど、こういう私であることは「ありのまま」や「自然体」の私の中に含めてなるものかとずっと切り離したり、除去しようとしていた。
それは直すというよりもなかったことにするみたいなこと。
私の中の前提として、ありのままでいるためのベースがあり、そのベースは清らかなもので、負といわれる感情だったり、私の性格のひとつである「根に持つ」「気分の切り替えが遅い」などのあさましいものがない状態だからこそ統合したり、受容したり、全てがオールオッケーと言えるんだというのがある。
つまりは「ありのまま=清廉潔白」な状態だと思っていたから、怒りや苛立ち、ましてや嫌悪感、嫉妬心、罪悪感などを持っていてもいいと言われても排除しなければと必死だった。
だから今朝、夫を見てにくにくしいと思いつつ、
「そんなことを思ってはいけない。どれだけ私の性格ひねくれてるんだ。
この人は曲がりなりにも謝ったじゃないか、いつまでもネチネチとする私は本当に性悪だ。だから相手も私を大切にしないんだ。私がこんなこと思うから私は共感してもらえないんだ、むしろそんな資格なんかないんだ。」と瞬時にそのにくにくしいと思ったことをかき消すように自分をザクザクと包丁で刺して傷つけ、まだ腹の底にこびりついている怒りを隠しながら、夫に無表情で「おはよう。朝だよ。」と伝えていた。
日常のほんの些細なひとつの湧き上がった感情をかき消したり、隠したりするためにどれだけ自分のことをけなし続けてきたのか。
よくブログセラピーというのを一昔前に聞いていたけれど、これがそういうことかもしれない。
書かなければ、書こうと思わなければふんわりと脳みその中でこの一連が流れていき、どこかに漂流し、なにかの拍子で浅瀬に辿り着き、その時にまたにくにくしいという感情が芽生え、同時に自分を傷つけということを繰り返すんだろうと思ったらゾッとする。
かなり今まで自分で自分を否定してきたところがここで露呈されていくことになるかもしれないけれど、また書いてみよう。
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