いつから自分のことをキムタクだと勘違いしているのだ

2019/04/07 午前2時記す

 今日はやりたかったことの半分もできていない。明日、緊張する予定が入ってしまったからだ。ほとんど会ったこともない人たちとボーリング、あまつさえカラオケにまで行かなければならなくなった。これは困った。断るのは簡単だ。しかし僕はラジオリスナーである。春日と若林ならフリートークのネタを探しに行くはずだ。それに人見知りを克服しなければならない。嫌なことから逃げてばかりではよくない。

 ある予定が近づくと、今やるべきことに身が入らなくなる。それが緊張する予定だったり、嫌な予定の時はなおさらそうだ。どうしたってその予定はやってくる。仕方はないと諦めて今やるべきことに集中するべきである。そのためにはどうすればよいのか。まずはしっかり予定を立てておくべきであろう。あれもこれもという状態では、自分にとって比重の大きい用事がどうしてもチラついてしまう。そういう時は淡々とタスクをこなしていくのがよい。よって単純作業や受動的にできることがいいのだろう。例えば、メジャースケールの練習をするだとか、映画を見るだとか。みっちり一週間、もしくは一ヶ月の予定を立てよう。

 最近、嫌なことを避けがちだ。バイト先で遊ぼうという企画に参加しなかった。ドレスコーズの志磨遼平は『ゴッホ』という楽曲の中で、「右か左か選ぶ時が来たら 面倒になりそうな方を進め ベイベー」と歌っている。長らくこの歌詞のことを忘れていた。嫌なことは反転して本当はやりたいことなのかもしれない。好きと嫌いは表裏一体だとよく言う。今、親しくしている二人とも、一時期絶交していた。でもその二人には、自分の思いを一番正直に話せている。いや果たしてそうだろうか。高校のとき、同じ部活だった二人にも正直、もとい心理的な抵抗がなく話すことができている。そうだ。彼らの前で格好つけなくてもいいからだ。よく見られようと思わなくてもいいからだ。すごい人だと思われなくていいからだ。初対面の人の前では格好つけようとしてしまう。高校の時は長い間、半ば強制されて同じ時間を過ごした。今思えば、随分と恥ずかしいことも言ってきた気がする。言い換えればそれは信頼だろう。

 時間が重要なのかもしれない。昨日の日記で、一度しか、一瞬しか合わない人に恥ずかしい姿を見られるのが嫌だ、という話をした。それはむしろ、一瞬で一回きりだからなのかもしれない。その人の中で、僕の姿は恥ずかしい姿それだけになってしまう。人間だから恥ずかしいところも、格好いいところもある。長い付き合いの友人にはそれを見せてきたし、僕も見てきた。いいところも嫌なところも、格好いいところも格好悪いところも知っている、それが深い関係だろう。

 とはいえ、恥ずかしいという気持ちが起こる原因はそれだけでないとは思う。恥というのは複雑だ。ダサいと思われたくない。馬鹿だと思われたくない。すごいと思われたい。でも僕のダサいところを知っている人、すごくないと知っている人とは仲良くなれるのだ。むしろずっとすごいと思われている方が困難だ。もっともわかりやすい例が家族だろう。そそう思われてもいい人とは緊張せずに話せるのだ。そう考えるとキムタクは大変だ。ずっとキムタクを演じなければならない。人見知りをするというのは、自分をキムタクだと思っているということだ。もっともわかりやすい例が家族だろう。そんなことにすら今まで気づいていなかったのか。ひとまずそれがわかった。

 そうか。だから比企ヶ谷は誰とも対等に話せるのだ。よく見られようとしていないから。大泉洋もそうだ。全国にトイレで苦しんでいる姿を公開されている。一周、いや何周もした格好よさだ。恥を受け入れるということを彼は教えてくれていたのだ。

 振り返ってみると僕にもそんな経験はあった。バスの中でお腹が痛いと叫んだ後、クラスメイトと仲良くなった。サイファーをしている瞬間は必死で、恥なんか気にしている場合ではないから、正直に思ったことが言える。むしろ恥が入るとダサくなってしまう。失敗してもいいのだ。ここ最近、失敗を恐れすぎている。

 いつから僕は人と関わるのが苦手になったのだろう。こんな自意識の問題はさっさとどうにかするべきだ。中学生の時は割とうまく人と関われていたと思う。誰とでも対等に話せていた、と思う。学年で一番可愛いと言われている人ともヤンキーとも、むしろ避けられているような人とも。小学校からの長い付き合いがあったからというのも一因だろう。それとは別に、自分に自信があったからかもしれない。成績がいいという自信。ピアノが弾けるという自信。しょうもない。しかし今振り返るとそれにあったのではないかと思う。だって高校に入ると一気に人見知りになったから。なぜか女子と話すときに敬語になった。別にタメ口でいいのに。謎だ。それがモテると思っていたのだろう。部室では、男女気にせず、先輩後輩気にせずに話せていた。でも、顧問とはうまく話せなかった。教員と話すのが苦手だった。なぜだろうか。怒られるのが嫌だから?父との関係のようなものかもしれない。これは今すぐにはわからない。やはり"親"との関係だ。それを超えなければ。

 ここからはいくつか断片的に思いついていることを書く。ここまでもだいたいそうだが、まだ日記といえど、構成は気にしながら書いていた。

 中学校時代の友人のtwitterを見てしまった。問題はもっと複雑だ。地元の知人たちが集まってBBQをしている。集合写真を撮っている。あの輪の中に入れる自信がない。一緒に写真を撮れる自信がない。場違いだと思ってしまいそうだ。まずどんなポーズで写ればいいのかわからない。いや、写真をよく見てみるとだいたいピースだ。案外大丈夫そうな気がしてきた。いろんな集合写真を見まくろうと思う。いやその考え自体が間違っている。でも多分検索する。そんなポーズとかするんだって思われたくない。いや何が悪い、と思えなければいけない。そう思うやつの方が悪い。そして全員筋肉がすごい。すごい鍛えてそう。身体的に劣っていると感じてしまう。相手が自分のことを馬鹿にしているんじゃないかと、下に見ているんじゃないかとすぐ思ってしまうのだ。そう思う相手が単純に悪い。アドラーを持ち出すまでもなく。そう思ってしまうということは、自分にそういう審査基準があるということだ。ダサいだとか、筋肉がどうだとか、頭がいいだとか。自分より下だと思える人とは話せている、ということかもしれない。それはよくない。非常によくない。ヤンキー(便宜上)の彼らはそんなこと全く気にしていないと思う。気にしているのかもしれないけれど、そんなこと微塵も感じさせない。むしろ相手がその審査をしているなということに敏感なのかもしれない。いきなり気にしないのは無理かもしれない。でもまずはそういう自分を自覚しなければ。単純にナルシストなのだ。格好つけるべきときに格好つけてられればそれで十分だ。相手が思う自分を演出しなくていい。キムタクになるな。星野源もそれで苦しんだのだ。そうだった。

 インターネットの影響が大きいのではないか。ほぼ毎日SNSを使っている。僕がスマホを手にし始めた時中学一年生の時から高校3年生まで、つまり思春期にずっと2chのまとめサイトを見ていた。匿名の彼らの集合体の無意識が僕の思考回路にインストールされているのではないか。最近はめっきり見ることは無くなったけれど。最近はtwitterだ。twitterのアカウントたちの集合体の無意識もインストールされている気がする。そして彼らの頭には2chの… 人と奇を衒わずに接すること、それはその無意識たちをアンインストールするということだ。現代人、現代っ子の病だ。僕は医者になりたかった。自分が罹患してどうする。中学校のあの時のヤンキー(しつこいようだけれど便宜上そう呼ぶ)たちのように、伊坂幸太郎の小説の登場人物たちのように、あらゆる僕の好きな映画や小説、アニメ、ドラマの彼らのように。どうせインストールするならそちらだ。もちろん彼らになろうとしてはダメだ。でも彼らの姿勢を学ぶことはいい。