嫉妬と自慢だけはするな

2019/03/20 午前3時記す

 今月、そして今年二度目の東京から帰ってきた。疲労が溜まっているし、眠たい。気怠い。これを書かずに寝てしまいたいけれど、こういう状態の時にこそ書いておくべきだ。そう。書けるときに書く、ということを今回の旅で、いや、ここ最近の日常で学んだことだ。書かないと忘れてしまう。忘れてもなお残ったことを記せばいいというのは嘘だと私は思う。それはそれで真理なのかもしれないけれど。全部覚えていた方がいいに決まっている。もちろん、人は忘れていかないと生きていけないことなんて重々承知だ。別に詩的な意味ではなく、生物学的な意味で。覚えたいことだけ覚えていられればいいのに。天才は凄まじい記憶力を持つという。この通説はきっと事実だ。私はそうではないから、羨ましく思ってしまう。

「嫉妬と自慢だけはするな。嫉妬をすると前から、自慢をすると後ろから刺されるぞ」

 菊地成孔の父が、彼に唯一言い残した言葉だとカーテンコールで喋っていた。ずっと見ていたかったし、聞いていたかった。エロいと感じたのは、そういう触れ込みだったからなのか、前口上と詩のせいか。そうではないと思いたい。それがわからないのが嫌だ。それじゃあ誰かの言葉の受け売りじゃないか。感想を批評を目にしてしまうと、それをまるで自分の言葉であるかのように反復してしまう。それが嫌だ。嫌だと思いながらももうすでに口は動き始めている。例えば高橋源一郎のツイートの「最も寛容なのは音楽を聞いている人間ではないか」という言葉。それに呼応するかのような、演奏していた当人、菊地成孔の「人間の一番健康な状態は音楽を聞いている時」だという言葉。なんの根拠もないけれど、そうなのだろうなと思ってしまう。言ってしまいそうになる。でも、私が使ったとて薄っぺらい。何が言われているのかではなく、誰が言ったのかというのも真理であると、今の私は思っている。今日は真理という言葉をなんども使っている。嫌だな。

 それでもなんとか言葉にしないといけない。何を思ったのかをそのまま。丸谷才一は「文章は気取つて書け」と言っていた。これは忘れても忘れても覚えていることだ。なるほど確かにすらりと必要なときに出てくるものだ。まだ私はその意を汲み取りきれていない。気取つた文章を書くのは苦手だ。しかし気取つた文体にならすることができるのではないか。いや、わからない。文体のことなど私には何もわかっていない。何を思ったのかは素直に、しかし文体は気取つて書けるよう努力してみよう。
 わからないことばかりだった。しかしすごかった。あそこにいる人たちは、どれくらい理解できていたのだろう。いや、理解など必要ないのだろうか。幸福な観客とは。ただよくもわからずに、すごいと思えればそれでいいのか。わかった上で、それでもやはりわからずすごいと思えればいいのか。中途半端なわかった、ではどうか。どれでもいいのだ、というのは偽善ではないか。リズムのこと。ソロに行くタイミング。合図。音の迫力。前日に行った小さなジャズバーと何が違うのか。言語化できるのだろうか。言語化してしまわないほうがいいのだろうか。逡巡している。一つ一つの音の丁寧さ。しかしながら失われない力強さ。書いていて思う。文章は全て後付けだ。あの瞬間しかないのだ。あの瞬間のあの感動を、あの気持ちを再現することなどできないのだ。ましてや人に伝えることなど。実際にその場に行って聞くしかないのだ。それでも私は言葉にしたいと思ってしまう。なぜだろう。言葉の力を、文章の力を信じている。と思うのがただ格好いいと思っているだけなのだ。私は不幸な観客になりたい。

「お前は自ら不幸に飛び込む癖がある」と友人は私に言った。それを真に受けていたたただの中二病だ。それでも、僕はわかってしまう、理解できる、そして言葉にできるという不幸を手に入れた上で、それでもわからないという幸福を手に入れたい。これも受け売りだ。菊地成孔の。玉村豊男の。なんで無条件にそれを信じ、使ってしまうのだろう。

 なぜかって、単純に格好いいからだ。きっとこれはブランドだったり、固有名だったりという問題なのだ。それとなくわかるを、まずははっきりとわかるに。解像度。

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